2度の世界一周で確信
南極以外はリモートで仕事ができる
――世界一周の旅がきっかけで起業されたそうですね。
最初に世界一周の旅をしたのは、大学院修了後に勤めた会社を1年ほどで辞めた後でした。まだブログやSNSがなかった時代でしたから、自分で作ったホームページに旅行記をアップしたところ知らない人からたくさん応援してもらい、それが書籍になったりもしてインターネットって面白いなと思い、帰国後はECのベンチャー企業から、その後化粧品会社のサラリーマンとなってインターネットの仕事に従事していました。
10年くらいインターネット中心にマーケティングの仕事で実績を積み重ねてきて、その間に学んできた目で海外を見てみると何か違うかもしれないと、2013年に退職して2回目の世界一周の旅に出ました。普通は「●●したい」と思って起業するのかもしれないのですが、私はとりあえず起業して、ダメだったらまた会社員に戻ろう、くらいの気持ちでした。そのときの旅の様子をSNSで見た人たちは、会社を辞めてフラフラしている私のことを暇だと思ったんでしょうね(笑)。海外を放浪している間、SNSでたくさん仕事の依頼が来るようになり、こんなに必要とされているなら、そのニーズを満たすような事業を立ち上げようと日本に戻ってからデジタルマーケティングの支援事業で起業しました。
南米で出会ってシンクロに入社したメンバーはフィリピン在住のままですし、彼女のように旅行しながら働く場所を自分で選んでいくという選択肢もあったと思います。でも、私の場合は起業して何をしたいということがなくて、「起業したことがないからしてみよう」という考えでしたし、すでに日本からたくさん仕事をもらっていたので帰国して起業することを選びました。
――世界のどこにいるかは関係なく依頼が届き、仕事もできるものなんですね。
SNSがすごいと思うのはそういうところですね。1回目の世界一周のときとは違い、2014年には世界中どこの宿にもWi-Fiがあり、どこにいてもいつでも連絡が取り合えました。
そのときに声を掛けてくれたオイシックス・ラ・大地とは、現在も専門役員CMTとして関わっていますが、海外にいる間も週に1、2回の定例ミーティングにリモートで参加していました。ただ、南極だけはネットワーク環境がなかったので、「すみません、これから2週間南極に行くので」と謝りました。そのときのことは未だに社内でネタになっています(笑)。
2回目の世界一周旅行で、マサイ族と(2014年)
――日本に戻られ起業されてからについて教えてください。 シンクロではどのような事業を展開されていますか。
主力となっているのは、デジタルマーケティングの支援事業です。ただし、一般的にコンサルティングとしてイメージするような、資料やフレームワークづくりといったことはしません。自分が事業会社でデジタルマーケティングに従事した経験から支援をしているので、事業側の視点で戦略作成に関わるなど、CMO(最高マーケティング責任者)としてクライアント企業の社内に入り込んで長期的に関わっていきます。この点が特徴的だと思います。クライアントは、シンクロの起業当時から、長年にわたってお付き合いしている会社ばかりで、クライアント企業の社員の皆さんも私のことを上司のように思ってくれているようです。
デジタルマーケティング以外では、最近分社化したグロースXというマーケティング学習アプリ事業も大きな柱の一つです。これまで支援してきた全ての会社で売上が伸び、契約を継続できているのは、デジタルマーケティングの支援をする中で社員教育をやってきたからだと気づいたので、グロースXではマーケティングやAIなどの人材を育成するSaaSを展開しています。
そのほかにも、「HOLICC」という旅関連アイテムを扱うD2C事業、禅アプリ「InTrip」の開発、地域活性事業、鎌倉インターナショナルFCというサッカークラブ運営など幅広い事業を展開しています。すべて社員の興味関心からスタートしたものです。
デジタルマーケティングとして考えず、
デジタル時代のマーケティングと考える
――マーケターとしてのご自身の強みは何だと思いますか。
特別なスキルがあるとは思っていないのですが、長くやっているおかげで、ほかの人より先駆けてやってきたことがたくさんあることでしょうか。例えば、2000年代前半まではホームページを作れること自体がスキルになりました。CMS(Contents Management System)やSNSもなくて、今のように誰でも気軽に発信できる状態ではなかったので、作れることが価値の時代もあれば、SEOやSEMのようにサイトに集客するスキルが重要な時代もありました。しかし、そういったことを実現させるための技術はAIに置き換わり、今やそれ自体をスキルとして評価してもらえることはありません。
そんな時代に何が評価されるスキル、つまり自分にとっては強みになるかと言えば、「お客様に価値を提供して、最終的にビジネスとして利益をもたらす」という不変の部分です。それこそが、私が事業会社でマーケティングの仕事をしながらずっとやってきたことなので、自分の強みだと言えると思います。
――事業のひとつである、デジタルマーケティング支援とはどのように行うのでしょう。
支援のしかたは会社によって全然違いますが、どんな会社にも共通する課題として、問題の本質が正しく理解されていないということがあります。デジタルマーケティングという手法を導入した瞬間に何かが変わると考えている人も少なくないですが、本質はそうではありません。
私はデジタルマーケティングについて話すとき、「デジタルマーケティングというよりも、デジタル時代のマーケティング」と言うんですね。例えば、初めて世界一周した2000年代前半ごろに訪れた際には、南米・ボリビアのウユニ塩湖は誰もいないところでしたが、それから10年後の2013年ごろに訪れると日本人が100人ぐらいいました。マーケティングの効果でも広告を展開したわけでもなく、InstagramなどのSNSの影響でウユニ塩湖が一気に人気になったのです。もちろん偶然の部分もあるかもしれませんが、現地の人はインスタ映えする写真の撮り方を理解しており、うまく写真を撮ってくれます(笑)。これはただ、デジタルが浸透したことで消費者の行動が変わったのであって、SNSを使ったらなんでも一気に人気になるということではないのです。マーケティングの手法が大事なのではなくて、消費者の行動が変化したことをどう捉えるか、がとても重要だと思っています。
旅先で出会った仲間たちと
今も旅を楽しみながら事業を展開
――シンクロの社員の皆さんは世界中を旅する中でご自身で直接スカウトした方たちが多いそうですね。
まずシンクロという会社は、自分の理想とする形を実現したくて作った、特殊な会社なんです。「どんな会社なら私は会社員として働きたいか」を起点に会社を作っています。ここに集まっているのは、放っておいても勝手に自走できるような人たちばかりで、自分で会社経営をやっていた人もいます。そして彼らの多くは、私が旅の途中で出会ったバックパッカーたちなんですよ。
旅人の中でもバックパッカーと呼ばれる人たちがいいなと思っているのは、誰かに言われて旅行しているのではなく、みんな自分の意志で旅しているからなんです。旅先ではイヤなことや大変なこともあるけれど、旅行に行くことを決めたのは自分だし、行ってから次の目的地を決めて動くといったことに慣れている人が多いような気がします。
それは仕事も同じですよね。会社や上司がダメだと言うなら辞めてもいいし、自分で会社のダメなところを変えてもいいのに、それをしないのは自分です。旅行に例えると、自分の意志でインドに行ったのに「暑くてイヤだ」と愚痴をこぼすようなもので、それって格好良くないですよね。でも、バックパッカーたちは自分の意志で行っているから、その先で起こることにも自分で責任をとる。だから文句も言わないし、人のせいにもしない、そういう考え方の人がうちの会社にはすごく合っているように思います。
――旅を通して出会った仲間たちと、どんな会社を作ろうとしているのでしょうか。
そうしたとてもスキルが高くて自分の力で伸びてきた人たちを、今ある「会社」という枠に当てはめないで何かをしたい、彼らが活躍できる場所をシンクロで作りたいと思っています。なので、起業したいけれど今まで身につけてきたスキルをどう起業に結びつけるかわからないというメンバーがいれば、起業のノウハウやお金をある程度用意できるし、サポートできる体制も整えています。それとは逆に、ルールを作って社員を導いていくような会社はたくさんあるので、そこは別にシンクロでやらなくてもいいなと。
そういう人たちが働きやすい会社にするということは、常にメッセージとして社内に発信し続けています。ただ、メンバーがそのメッセージを私が伝えたとおりに受け取るのではなく、個々にアレンジしながら仕事をしているのがシンクロです。
そもそもトップから右を向けと言われてみんなが右を向くようなやり方は、私自身が苦手なんですよ。いろんな国の人と会って、さまざまな価値観に出会えることが旅行の楽しみの一つであるように、仕事においてもさまざまな価値観があることを知り、その中で自分の選択肢を持つことが重要だと思っています。例えば、旅先で素敵な湖があると聞いても、その湖に行きたい人だけが行けばいい。「泳ぐのは苦手だし行かない」という人もいていいんです。
モンゴルでの社員旅行(2019年)
――自由な働き方を推奨する社風ですが、その中でどうやって社員としての一体感を生み出しているのでしょう。
自由ではありますが、みんなで集まることも好きな人が多いですね。確かにうちの会社はオフィスがないのでリモートワークが基本で、海外や地方在住のメンバーもいますが、年に2回くらいは海外メンバーも帰ってきて全員で社員旅行に行きますし、社員たちとは毎月のように一緒に旅行しています。誰かが「今週末京都に行くけれど行きたい人いる?」と声を掛けると、行きたい人が手を挙げて一緒に行くという感じです。
そう思うと、この会社では一緒に旅行ができない人が働くのは無理かもしれないですね(笑)。今展開している事業は一緒に旅する合間に雑談しながらできたものばかりです。私はリモートワークだけのビジネスライクな関係になってしまうことを良しとはしておらず、プライベートとビジネスをうまくミックスさせて楽しめる関係性を望んでいます。メンバーそれぞれが〝個〟として成り立っているからこそ、シンクロではそういった関係性をつくれています。
社員旅行のときには私も行き先の提案はしますが、みんなが自主的に行きたいところを選んでくるので任せています。そうやって物事に対して主体的に取り組める人たちだけが集まる組織で良いと思っているので、会社としてあまり大きくするつもりもないんです。ある程度事業が育ってきたら、各人の得意なことを伸ばしやすい別の会社にすればいい。独立した会社には〝シンクロっぽさ〟もいらなくて、それぞれの色を出してほしいと思っています。
みんなで丹羽篠山でリモートワーク(2022年)
時間や場所で縛らないことで広がる選択肢や視野
人も会社も幸せになる働き方を
――「仕事も旅(ジャーニー)」といったように捉えていらっしゃるのでしょうか。
その通りだと思います。私は長期的な計画を立てるのが得意ではなくて、10年後のビジョンもないし、10年前を振り返ってみても今のような形をイメージしていたわけではありません。私がしてきた旅もそうで、タイで出会った人から「ベトナムはいい国だよ」と聞いたからベトナムに行ってみるというように、どんどん旅行の範囲が広がっていきました。そうやって南極まで行きましたが、昔から南極に行きたかったわけではなかった。面白そうと思ったところにすぐに足が動くのがたぶん自分の一番の強みで、それを繰り返していくとどんどん自分の視野が広がっていきました。
視野が広がると、選択肢ができます。選択肢がないとイヤなことをしないといけない状況がたくさんあるかもしれませんが、選択肢があれば自分の行きたいところに行って好きなことができるし、しんどくても自分が好きで選んだことなら突き抜けられる。だから、選択肢を増やすためにどんどん行動して、視野を広げたいんだと思います。
――旅先で起こるさまざまなハプニングも楽しめるようなマインドセットを持つということですね。簡単なようで難しそうですが、どうすれば身につくものでしょうか。
ビジネスでも、事前に情報をたくさん集めて自分が失敗しないようにしたくなりますが、失敗から学ぶことはとても多いし、失敗すること自体を楽しめるといいですよね。だからといって、いきなり危険なところに行くことを勧めているのではありません。何の装備も体力もなくいきなり南極に行くのは無謀なだけですし、ビジネスにおいても実力がないのにいきなり大きなことをやろうとしたところで大失敗するだけです。ただ、少なくとも自分が見える景色の範囲ではチャレンジングなことをしたほうが面白いし、それは失敗してもいいんじゃないかと思っています。
そういうマインドセットはすぐにできるものではなく、経験の積み重ねだと思うので、そういう機会をたくさん与えられるような仕組みができるといいかもしれません。例えば、極端な話、無人島で1週間過ごす社員研修もありだと思います(笑)。でも、それを面白そうと思える人だけ採用すればいいことで、シンクロの場合もそうしたことを面白がれる人しか採用していません。知らないこと、未経験のことに対して、「恐怖心」ではなく、「興味」や「好奇心」を持てるかどうかなんだと思います。
趣味の釣りへ、日本全国どこにでも
――最後に、これまでの経験を踏まえて、これからの働き方についてアドバイスをお願いします。
今の日本の会社は時間給の考え方にすごく縛られていると感じるので、その考え方からいかに脱却できるかが重要になると感じています。最近は兼業を認める会社も増えていますが、自社で3日間頑張ってくれれば残り2日間はほかでやっていい、というように、やはり時間で縛られてしまう。でも、働くのは週に1日でも、それ以外の6日間にたくさんのインプットがあり、それが週1日のパフォーマンスに含まれているかもしれないじゃないですか。シンクロで生まれた事業の全てがオフィスではなく、外で雑談している時に生まれています。これは「仕事の時間なのか、遊びの時間なのか」と考えるのはバカらしいし、タイムカードで時間を決めて働くのは効率が悪いと感じます。
仲良くしている起業家の方もいろんな世界を楽しんでいて、仕事とそれ以外を明確に分けていないのに、自分の会社の従業員に対しては時間で縛ろうとしているんです。そういう考え方を変えて、オンとオフの境目がなくなっていくことをどう捉えるか考えていく必要があると思います。これからの働き方を考えるなら、とにかく一度、時間で縛るということをなくしてみるといいのではないでしょうか。
■プロフィール
西井 敏恭(にしい・としやす)
株式会社シンクロ 代表取締役社長
1975年5月福井県生まれ。金沢大学大学院卒業。2001年から世界一周の旅に出る。帰国後、旅の本を出版し、ECの世界へ。2014年に2度目の世界一周の旅をしたのち、シンクロを設立。大手通販・スタートアップなど多くの企業のマーケティング支援やデジタル事業の協業・推進を行う。シンクロ代表取締役社長のほか、グロースX取締役CMO、オイシックス・ラ・大地専門役員CMT、鎌倉インターナショナルFC取締役CDO、FABRIC TOKYO社外取締役、株式会社NTTドコモ コンシューママーケティング部シニアマーケティングディレクターなども務める。
■スタッフクレジット
取材・文:牛島美笛 編集:佐藤草平(日経BPコンサルティング)