日本語では直訳が難しい概念
「Well-being」とは主観的な尺度
――「Well-being(ウェルビーイング)」とはどのような概念なのでしょうか。まずはその定義を教えていただけますか。
「Well-being」の定義は、実はすごく難しいものなのです。というのも、この言葉の正確な日本語訳は、今のところ存在しません。「幸福」と当てはめるケースもありますが、英語だとそれは「Happiness」なので、厳密には違う概念です。ぴったりと当てはまる日本語訳がないということは、日本人にとってWell-beingは非常に分かりにくいもの、あるいは空気のような存在で、普段あまり意識しないものなのではないかと考えられます。
WHO(世界保健機関)では、「健康(Health)」の定義を「身体的、精神的、社会的なWell-beingが完全な状態」と定めています。ここから、少なくともWell-beingにはこれら3つの意味合いがあることが分かります。
私自身は1989年にフジクラに入社しまして、ある時、当時の社長から、「社員を元気にしてほしい」と依頼されてコーポレート企画室内にプロジェクトを立ち上げました。まだ「健康経営」も「Well-being」も言葉として存在していなかった時代でしたので、私たちは、このプロジェクトを「元気プロジェクト」と呼んでいました。そこから長く従業員が元気に働ける環境づくりに取り組んできた私が考えるWell-beingとは、「尺度」です。例えば、身長を表すときに「背が高い」というと、その人の身長が高いことを意味します。一方、「背の高さ」と言った場合は、身長を測る尺度のことです。Well-beingもこれと同じように、「尺度」なのです。
例えばWHOが定義した3つのWell-being以外にも、「キャリアWell-being」「人間関係Well-being」「経済的Well-being」など、Well-beingの定義はさまざま出てきます。それはWell-beingが、主観的な尺度をはかるものだからです。
――「Well-being」と「健康経営」は意味合いが異なるのでしょうか。
「健康」とはつまり、WHOが言うところの身体、精神、社会的なWell-beingが高い状態を指すわけですから、健康経営は「ウェルビーイング経営」と言い換えても問題ないと思います。ただ、健康経営とはWell-beingが高い「状態」を目指そうというゴール視点での言葉であり、Well-beingそのものは「尺度」であるということが、違いになります。
そもそも、経済産業省が2010年代に健康経営の定義を掲げ、多くの企業が取り組む中で健康経営という言葉が浸透していきました。ただ、一般的に「健康」という言葉を聞いたときに多くの人は、健康とは「病気ではない状態」だと、病気の対義語として考えます。そのため、健康経営とは、病気にさせない経営であり、疾病予防をきちんとする経営なんだと、WHOの定義とは違う考え方で世の中に浸透したのです。
そうではなく、従業員のエンゲージメントやモチベーションを上げていく、1人1人がやりがいを持って働けるように、会社の状況も個人の状況も良くしていくべきだよね、と考える経営者たちが、最近になって「ウェルビーイング経営」という言葉を使い始めた、というのが日本での流れになります。
――コロナ禍はWell-beingにどんな影響を与えたでしょうか。
Well-beingという言葉自体は、コロナ禍前から言われていました。しかし、新型コロナがWell-beingを推進する動きを加速させたのは確かでしょう。外出自粛やテレワークといったさまざまな環境の変化により、「病気ではないけれど、元気ではない状態」が従業員に見られるようになり、疾病を予防する考え方の健康経営よりウェルビーイング経営が大事である、と考える風潮が高まった、というのが私の考えです。
関連記事:ウェルビーイング経営とは?健康経営との違いやメリットを解説
取り組むのにお金はかからない
中小企業のほうが早く浸透できる
――世界と比較した際の日本企業のWell-beingの取り組みをどう見られていますか。
コロナ禍では、日本も欧米も、同じように従業員のWell-beingは下がりました。ただ、その対策のスピード感が違いました。やはり、欧米の動きは速かった。例えば、イギリスではロックダウンの解除などの政策を決定する際に、国民のWell-beingを計測して政治判断をしているんですね。それに対して、日本ではイギリスと同じようなスピード感では動けていません。これは、Well-beingという言葉を持っている英語圏と、言葉を持っていない日本の感度の違いだと考えます。
――日本企業はどのようにWell-beingに取り組めばいいでしょうか。
会社が掲げるビジョンや目指す世界観と照らし合わせて、「自社が大事にしたいWell-beingは何か」を考えることが重要です。Well-beingという英語の言葉を聞くと、難しくて何をすればいいか分からない、と感じてしまうかもしれません。でも、その本質に立ち返ると、「従業員に元気でいきいきと働いてほしい」ということです。それを望まない経営者はいないと思います。独身の人、結婚している人、障害を持つ人、介護や育児をしながら働く人など、多様な人がいきいきと元気に働ける会社にしたいと考えるなら、今足りていないものは何かを見極め、1つ1つ改善していくことが大切です。
――リソースの少ない中小企業はなかなかWell-beingに取り組めない現状もあります。中小企業が取り組むにはどうすればよいでしょうか。
リソースがないからWell-beingに取り組めない、というのはまさにWell-beingの誤解です。以前の健康経営のように、疾病予防だと考えるならば、健診費用などのお金がかかるかもしれません。しかし、「人間関係Well-being」を高めるためと考えてみてください。そうすると、施策の1つと考えられるのは、例えば「社長と社員の対話の機会を増やすこと」です。それにはお金はかかりませんよね。経営者が、普段のちょっとした行動が従業員のWell-beingを高めることにつながるのだ、という知識さえ持っていれば、コストをかけずに取り組むことができます。
従業員数の少ない中小企業では、社長と従業員の距離は近いはずです。だから、むしろ大企業よりも取り組みやすいと思います。さらに、少ない人数だからこそ、1人1人のエンゲージメントの高さが業務の生産性や会社の業績に直結します。エンゲージメントが高いということは、会社への信頼感が高いということ。そのような会社で働くことが従業員のWell-beingを高め、パフォーマンスがアップします。
「自分たちが大切にすべきWell-beingは何か」
まずは自社の現状を見極めることが重要
――Well-beingを高めるための成功事例や効果的な施策があれば教えてください。
あるアメリカの企業で、工場の照度を上げるなど、生産性を高めるためのさまざまな実験をしました。結果はどうだったと思いますか。すべての取り組みで、生産性がアップしたのです。それは、会社が従業員のことを考えて取り組んでいる、ということ自体が、従業員のエンゲージメントを高めたからです。
成功事例を聞くと、自分たちも同じことをしようと小手先の方法論に飛びついてしまいがちです。その結果、効果が出ないから「Well-beingなんて意味ないよね」と諦めてしまう企業も出てきています。
そこで一番重要なのは、他社の真似ではなく、まずは自社の現状を知り、自分たちが大事にするWell-beingは何なのかを見極める。そこから取り組むべき内容が見えてくるはずです。
――現状を知り、施策が決まったら、効果を計測する必要があると思います。そのときに気を付けることはありますか。
自分たちが取り組むべきWell-beingを見つけたら、目指すゴールを決めて計測していきます。ただし、ここで理解しておいてほしいのが、Well-beingは心理量なので、体重計で体重を測るようにハッキリと数値は出ない、ということです。「あなたのモチベーションは何%ですか」と聞かれても定量しようがない。そういうものだとまずは経営者が理解してください。そのうえで、エンゲージメントや従業員満足度を測るツールが今はたくさんありますし、自社で工夫しながら計測していってほしいと思います。
さらに気を付けたいのが、計測結果を他社や部署間で比較することです。Well-beingは主観的なものだからこそ、長期的な影響、短期的な影響、あるいは環境の影響を大きく受けます。例えば、社内で業績トップだった営業部署は当然、エンゲージメントは高くなるでしょう。それと、毎日ルーティンワークを行う部門とエンゲージメントの高低を単純に比較するのは危険です。そのリテラシーを持って計測することが重要です。
――従業員に気を配ると、経営者自身の健康や働きがいを忘れがちです。経営者がWell-beingの高い状態で働くにはどうすればよいでしょうか。
経営者は責任の重さや意思決定のプレッシャーから孤独やストレスを感じがちです。それを緩和するのは、同じ立場にいる経営者仲間や先輩、いわゆるメンターです。コミュニティを形成し、相談したりストレスを発散したりする活動を自分から積極的にしていくことが重要です。経営者は孤独で誰も守ってくれませんので、自ら飛び込んでいかなければなりません。フリーランスの方にも共通して言えることですが、まずは自分自身がどんなタイプかを理解し、家族や友人、経営者仲間など、状況に応じて相談したりストレスを発散したりできるコミュニティを複数持っておくことがレジリエンス(強靭性、適応力)につながります。
――今後、企業にとってWell-beingはとはどんな存在になっていくでしょうか。
Well-beingの取り組みは、倫理的に必要であるという側面と、従業員のパフォーマンスを向上させ競争力を高めるという両方の側面から、企業にとって必要不可欠な経営手法になっていくでしょう。アメリカではすでに戦略的にWell-beingを取り入れている会社が業績をどんどん伸ばしています。
日本でも、Well-beingに取り組まなければ資金調達や人材採用が難しくなっていくと思います。消費者も、人を大事にしない会社の商品やサービスは購入しないという世の中になっていく。企業の競争力は人的資源にかかっています。社会が豊かになればなるほど、人を大事にする企業しか生き残らないという構造になるのです。だからこそ、経営者がWell-beingを正しく理解して、正しく取り組んでいくことが重要です。
最後に、夢のある話を1つ。イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレードが唱えた、どのような組織・集団も人材の構成比率は、優秀な働きを見せる人が2割、普通の働きを見せる人が6割、貢献度の低い人が2割になるという、「2:6:2の法則」というものがあります。
しかし北米では、やる気のある人が約3割、やる気のない人が約5割、まったくやる気のない人が約2割というギャラップ社の調査結果があります。この比率は「2:6:2の法則」から外れており、そこにはやる気を出させる仕掛けがなされている訳です。
ひるがえって日本では、やる気のある人はたったの6%程度。やる気を阻害する要因がいっぱいある訳ですね。そのような状況でWell-being を推進し、やる気のある人が増えたらどうなるか。低迷久しい日本のGDPが、世界トップになる日がもしかしたら来るかもしれません。
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■プロフィール
浅野健一郎(あさの・けんいちろう)
一般社団法人 社会的健康戦略研究所 代表理事
1966年、兵庫県生まれ。89年、藤倉電線株式会社(現・株式会社フジクラ)に入社。光エレクトロニクス研究所に配属され、光電信システムの研究に従事。2011年、コーポレート企画室、14年、人事・総務部健康経営推進室、17年12月、CHO(Chief Health Officer)補佐などを経て現職。経済産業省、厚生労働省等の委員も多数兼任。
■スタッフクレジット
取材・文:尾越まり恵 編集:後藤文江(日経BPコンサルティング)
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