人手が足りないという父親からのSOSで職人の道へ
堤淺吉漆店について教えてください。また、漆店とは具体的にどのような商いになるのでしょうか。
堤淺吉漆店は曾祖父の堤淺吉が京都下京区で1909(明治42)年に創業した店で、ウルシの木の樹液を精製、調合するメーカーになります。最初は樹液を塗料にしたものを販売していたのですが、戦後に二代目が金箔を接着するための「箔押漆」を作ったところ、全国に普及していきました。父の代に技術革新に力を入れ、従来製法の漆に比べ、漆の粒子をより細かく分散させる独自の技術を確立しました。完成した塗装漆「光琳」は艶があり、紫外線への耐候性が従来の漆より高いことから、日光東照宮や姫路城をはじめ、文化財の修復に多く使われています。うちは材料屋なので、主な取引相手は重要文化財を修復する職人さんや仏壇仏具、漆器のメーカー、漆芸作家などになります。
穏やかな人柄の堤氏。持続可能な工芸のあり方を模索する。
大学は農学部に進み、京都に戻られるまでは北海道で畜産業に携われていたそうですね。家業に入るきっかけは何だったのでしょうか。
大学進学の際は京都を出たいと考えていたこと、また小さい時から動物や自然がすごく好きだったので、北海道大学の農学部に進学しました。大学卒業後も北海道で畜産業に携わっていたのですが、社長を務める父から「手が足りなくて困っている」という連絡が来ました。オリジナルの「光琳」は精製にとても手間がかかることを知っていましたし、それまで父親に頼られたことがなかったんですよね。北海道でも、ワーキングホリデーで一時暮らしていたニュージーランドでも、人が困っていたら助けるのが当たり前のコミュニティに身を置いていたので、いい人になっちゃって(笑)。シンプルに困っているのだったら助けたいと考え、実家に戻りました。
京都を出られたかったのはなぜでしょうか。
子どもの頃、「京都っぽい」といわれている感じが鼻にかけているようで苦手だったんです。大人になって京都に戻ってから、その裏や奥行きがわかるようになって。コミュニティの面白さを知ったり、実は人と人が深く繋がったりしている京都の良さに気づきました。特にこういう職人仕事は、分業で成り立ち、材料や道具に至るまで過去からの長い時間軸での繋がりや横の繋がりのなかで成り立っている。それに気づかない幼い頃の自分は浅はかだったなと(笑)。
一筋縄ではいかない漆の面白さと向き合う日々
漆の精製は熟練の腕と感覚が頼り。精製状態をガラス板にテスト塗りし、ねばりや艶、濃さをチェックする。
家業に入られてから、まずどのような仕事に就かれたのでしょうか。
ひたすら工場で漆の精製を行っていました。同じ漆の木の樹液を精製する場合でも、たとえば雨が降っている時、さらにそれが降り始めか降り終わりかによっても、漆の状態が変わるんです。柔らかさや艶など、顧客それぞれの要望に合わせて精製するのに毎日必死でしたが、漆という自然素材とのやりとりがとても面白くて没頭していました。
漆の状態を確認するのに使うのがガラス板です。ガラス板に指で漆を塗りつけ、ねばさをチェック、時間ごとの漆の乾きを記録していきます。艶、乾きやねばさなどお客様のご要望に合わせて何種類かの漆を調合していくのですが、ねばさは人によって感覚が異なります。作る人間が変わってもそこにブレが出ないように工房の中で職人同士が同じ漆を触ってそれぞれの基準を確認しています。温度によってもねばさは変わるので一年を通して同じ漆を対象にテストし、できるだけ感覚値を共有するように心がけています。
漆をとりまく状況についても教えていただけますか。
僕が生まれた1978年には500トンあった消費量が、店に入った2004年には100トンまで減少していて、現在は23トンほどです。日本産の漆の樹液は全体のわずか5%で、残りは中国からの輸入に頼っています。国内一の漆の産地である岩手でも漆搔(か)き職人さんは70代、80代の職人さんがメインでした。これでは10年どころか5年も続けるのはむずかしいと感じました。中国の産地にも行ったことがあるのですが、中国でも高齢化が進んでいます。漆の需要が減り、ウルシの木の植樹も減っているため、原料が減り……そうなると、漆搔きさんも減り、どんどん原料が減っていく……。このままでは漆業界が廃れてしまうことがリアルに想像できてしまいました。
漆を精製するなかで、漆の素材としての魅力にどんどん引き込まれる一方で、危機状況にあるとわかっていながらも、たかが漆屋にウルシの木を育てることも、漆搔き職人さんを増やすことも、売れる漆の商品を作ることも何もできないという絶望感のような感覚や、漆は日本の文化なのだから自分の代ではなくならないんじゃないか、という甘い気持ちもあったり。数年間はずっとモヤモヤしているだけでした。
生活の中で使われてこそ活きる、漆の価値を伝えるための一歩
15年かけて育てたウルシの木の幹に傷をつけ、樹液を採集する。ウルシの木1本でわずか200gの樹液しか採れないのだそう。
絶望とモヤモヤの数年間からどのように抜け出されたのでしょうか。
父も高齢になっており、あと何年一緒に働けるかわからないですし、僕が自由に動けるのは今しかないと思い始めて。趣味でサーフィンやスノーボードをするので、以前から美しい地球を残したいという思いをもっていたのですが、子どもが生まれたことでよりその思いが強くなり、何も変わらないかもしれないけれど、ともかく素材の魅力を伝えてみよう、と。2016年に、持続可能な天然素材である漆を未来に繋ぐプロジェクト「うるしのいっぽ」をスタートしました。
「うるしのいっぽ」の発想はどこから得られたのでしょうか。
漆と聞くとたいていは漆器を思い浮かべられて、繊細であるとか、きらびやかなイメージをもたれる方が多いと思うのですが、僕にとっての漆は全く違うものでした。それには二代目である祖父の影響が大きいんですね。祖父は何でもすぐに作ってしまうかっこいい人で。小さい頃、工房に遊びに行くと、器用な祖父が工房にある竹で竹とんぼを作ってくれるんですよ。その竹とんぼに漆が塗ってある。ふつう漆を塗ったものを飛ばしたりしないじゃないですか。それなのに祖父は一緒に飛ばして遊んでくれるんです。焼き物の工作が割れてしまった時には、黙って漆を接着剤がわりに使って直してくれました。僕にとって漆は、暮らしのなかで使われる身近なものであり、優しい祖父が作るかっこいい素材でした。
漆は縄文時代には、矢じりの先に石を付けたり、器を保護したりするために使われていたという歴史もあります。「うるしのいっぽ」では、まずは漆のプリミティブな使い方やかっこよさ、さらに漆がもっと身近な存在であることを伝えるために、冊子や映像、Webサイトを制作しました。
サーフボードに漆を塗るという斬新な試みもされています。「漆×サーフカルチャー」の融合はどのように生まれたのでしょうか。
うるしのいっぽを始めるとかなりの反響がありましたが、講演などに呼ばれる先が、工芸の関係者ばかりで。僕より何年も工芸に関わって漆を守ってくれている方々の前で、漆の大切さを話しても、未来は何も変わらないと思ったんです。漆に興味がない人に漆を好きになってもらうにはどうするか。国を越えて海外の人にも漆の価値を知ってもらうにはどうするか。そう考えた時に、自然を大切にするサーファーたちにはこの持続可能な素材としての漆の価値が届くのではないかとの考えにたどりつきました。
僕自身、趣味でサーフィンをする中、サーファーたちは海を大事にしていて自然をリスペクトしてるのに、サーフボードが発泡スチロールと合成樹脂でできていて、地球に還らないゴミになっていることに、わだかまりを感じている人もいます。それなら100%ナチュラルなサーフボードを作ろうと。天然の木から削り出したサーフボードに漆を塗れば、防水性が高まり、海でも使えます。
そうして2018年、オーストラリアの有名なシェイパー(サーフボードを削る職人)であるトム・ウェグナーが削り出したアライア(古代ハワイアンのサーフボード)の板に漆を塗った「Urushi Alaia」が完成しました。海や山で遊んでいる人たちは自然への感謝や畏敬の念があるので、漆の魅力や価値が届くという自信がありました。
ナチュラルな素材で作ることにこだわり、ワックスも天然素材のものを使用した。
反応はどうだったのでしょうか。
海外で展示を行うと反響も大きく、制作過程を追った映像作品は、フロリダのサーフィンフィルムフェスティバルで最優秀短編ドキュメンタリー賞も受賞させていただきました。アメリカの海でUrushi Alaiaを持っていると、「なんだ、その美しいアライアは!?」と、サーファーたちが声をかけてくれます。僕もうれしいので、「触っていいよ」と実際に触れてもらったり。「木の樹液から作った漆という素材で、水分で固まるので海との相性がいいんだよ」って伝えると、ビックリされます。漆の親水性はスピードアップにも繋がるんです。漆のサーフボードはロングボードなのですが、板を貸して実際に波に乗ってきてもらうと、大きな大人たちが海からスキップして戻ってくるんです。
彼らは「自分たちにそんな長い歴史はない。1万年前から漆の文化を繋いできた日本はすごい」と言ってくれます。ですが、日本人はこの大切な文化を忘れてしまいそうになっている。それがもったいない、と感じます。
小さな工芸の輪が繋がれば、強くて大きな輪になる
全国に漆店は30軒以上あるが、自社で精製している漆店は10軒程度。漆の精製には独自のノウハウがあるため、非公開の工房が多いなか、堤淺吉漆店では予約すれば工房の見学も可能だ。最近は若手の職人も増えている。
お話を伺っていると漆を守りたいという気持ちが高まりますが、一方で難しさも感じます。
他の分野であれば商品がたくさん売れれば、生産体制を整えることで利益を上げていくことが可能だと思います。漆などの仕事はたとえばお椀がたくさん売れて仕事が急に増えても、極端な増加は作る人ができる量に限界があります。作る人の技術も、素材も使えるようになるまで何年という単位で時間がかかる。僕が願うのは、やり過ぎない適量値を考えて、みんなでバランスを取っていける社会を作ること。そうすれば、工芸も次の世界に必要なものとして残っていけるのではないかと考えています。漆業界の課題一つひとつにアプローチすることは難しいけれど、全体で見た時に、漆の素材屋として役立てることがあると考えて活動しています。
2019年に始められた、京都中心部から車で1時間ほどの京北にある「工藝の森」もそのひとつかと思いますが、こちらではどのような活動を行っているのですか。
人と自然の穏やかな関係を作りたくてパースペクティブという社団法人を共同代表として立ち上げました。「工藝の森」は木を植え、森を育て、ものを作り、それを使い、直すという行為が森に還元されて循環するような活動を目指しています。人と地域と森——その繋ぎ手に工芸がなれるのではないか、そう思っています。廃校を利用したファブ工房FVK(Fab Village Keihoku)も昨年スタートしました。僕は農学部だったので、農林水産業が日本でいちばんかっこいい仕事になってほしいんですよね。京北はかつて平安京の都に使われた木材の産地。受け継がれてきた先人の知恵が多く存在しますが、人口減少、高齢化により最近は元気がなくなっていて。FVKで京北の木や漆を使ってものを作ることで、子どもたちが地域の文化に関心をもつきっかけになればいいと願っています。
地域ごとに小さな循環の輪ができて、それが繋がっていって強い大きい輪になれば、本当にサステナブルな世の中になると思うんです。工芸というのは、その地域の風土で育った素材を、その地域の歴史の中で、地元の人たちが手掛けているものなので、一つひとつの輪はとても小さいんです。でもその小さい工芸の輪がいくつも繋がって、いつか日本という輪も超えて世界でひとつになったら、みんなハッピーになるんじゃないかと思いますね。
今年4月に精製工場の隣にオープンされた「Und.(アンド)」もまた、小さい輪のひとつになるのかと思いますが、どのような場所を目指していますか。
自然と人々の暮らしを繋げる拠点にしたいと思っています。1階では職人やプロが使う道具から、金継ぎの体験キットなど漆を身近に感じてもらうための商品を販売しています。2階は事務所と倉庫で、3階にはワークショップを行うためのスタジオのほか、若い職人がもの作りできる工房を備えています。漆はかぶれる可能性があるものなので、気をつけながら子どもたちにもワークショップに参加してもらっています。普段から使っていて少し傷んでしまったといった木製のスプーンなどを持ってきてもらって、漆を塗る。欠けたり割れたりした部分も直るし、風合いが出てかっこよく生まれ変わります。みんな喜んでくれますが、大切にしまってしまうと意味がないので、絶対使ってね、としつこく言ってますね(笑)。
うちは漆業界を下支えする漆を精製する材料屋です。ただ、少しでも漆に関係した仕事に就きたい人や、漆工芸に携わりたいという人のための場所やきっかけを作りたいと思っています。僕にとってはサーフボードが漆と工芸を繋ぐひとつになったように、うちで働いてくれている若い職人それぞれが考える自然と人を繋ぐ漆のもの作りをしてくれたら面白いですよね。それが漆の新たな可能性を広げる道だと考えています。
今年4月にオープンした「Und.」。3階には若手職人のための工房とワークショップを開催するスタジオがある。
最後に、悩みながらも挑戦を続けている仲間である経営者の方たちにメッセージをお願いします。
自分のやっていることが好きだとはっきり言うことが大事だと思います。それさえやっていればどんどん仲間ができ、希望が生まれます。実際、僕が漆業界に絶望していた時、「うるしのいっぽ」を始め、漆のサーフボードを作ることで、たくさんの人たちと繋がることができました。それはまるで、真っ暗な中から光の点がどんどん集まってきた感じでした。仲間がいてくれると何とかなる。自分ひとりでは世界は変えられないかもしれませんが、自分が作る漆を届ける先や繋がっていく先にすごい人たちがいるので、明るい未来があると思えるようにもなりました。まさに、絶望が希望になり、楽しみになっている。そして、それがそのまま美しい地球と共に漆を次世代に繋ぐという僕らの会社のミッションになっています。
■プロフィール
堤卓也(つつみ たくや)
株式会社 堤淺吉漆店 専務取締役
1978年、明治時代から続く堤淺吉漆店の四代目として生まれる。地元・京都の高校を卒業後、北海道大学農学部に進学。大学時代はワーキングホリデーを利用し、ニュージーランドで畜産を学び、卒業後も畜産業に携わる。2004年、家業を継ぐため、京都にUターン。2016年に漆文化を守る活動「うるしのいっぽ」をスタート。2019年には「一般社団法人パースペクティブ」を共同創業。山間地の京北で循環型のもの作りを行う「工藝の森」の活動に取り組んでいる。2024年4月には工房兼事務所に漆や工芸と人々の暮らしを繋ぐ新たな拠点「Und.」をオープン。
■スタッフクレジット
取材・文:天野準子 撮影:蛭子 真 編集:Pen編集部