祖父が起こしたバイク部品卸業
2代目の父親は堅実に経営
――カスタムジャパンの成り立ちについて教えてください。
1954年に大阪市・鶴橋で、祖父が自転車修理の事業を興しました。いわゆる町のパンク修理屋さんがスタートです。その後、バイクや自転車、自動車の部品卸業へと広げ、鶴橋部品として法人化しました。戦後、生きていくのに必死だった時代、祖父が人生で初めて借金をして立ち上げた会社だと聞いています。
カスタムジャパンの前身「鶴橋部品」は、村井社長の祖父が大阪市鶴橋で立ち上げた
――お父様が2代目として継がれたのですね。
これは2代目に共通する悩みだと思うのですが、創業者のパワーが強すぎて、2代目はあまり変革できず守りに入る傾向があります。父もそうでした。また、ちょうど高度経済成長期だったので、変革しなくても成長できたという背景もあると思います。
戦争の苦しい時代を生きた祖父と、経済成長期に社長になった父とでは、世界観がまったく異なります。
もともと、父は東京の大学を卒業し、商社で働いていたところを、祖父が呼び戻しました。今でこそスタートアップはカッコいいという風潮もあれば、大学卒業後すぐに起業する人も少なくありませんが、当時は会社員のほうが、収入面でも精神的にもメリットがあったかもしれませんね。実際、幼い頃から見てきた父の姿は、義務感で家業を継いでいるように見えました。父の代では10年くらいずっと、売り上げは3億円ほどで横ばいでした。地道な経営をしたと言えると思います。
20代でITベンチャーの役員に就任
家業を継ぐ気はなかった
――村井社長も後継ぎとして育てられたのでしょうか?
私は今、400人ほどの「アトツギ」メンバーが所属する「一般社団法人ベンチャー型事業承継」でメンターをさせていただいていますが、基本的に「アトツギ」の95%くらいは先代から直接「後を継げよ」とは言われていません。私もそうでした。直接「おまえは後継ぎだから」と言われて育てられるのは、テレビドラマの世界か、ある程度規模の大きい会社だけではないでしょうか。
ただ、幼い頃から無意識に刷り込まれてはいます。私の場合、小学校の低学年のときからモトクロスのバイクに乗せられました。一般家庭ではありえないですよね(笑)。そうすると、自然とバイクに興味を持ちます。
また、夏休みなど長期休暇のときは、お小遣いをもらうために家業を手伝います。仕事場に行くと父の友達がいて「ボン」と呼ばれる。これは、一般の会社員家庭とは違う環境でしょうね。
子ども時代の村井社長。小学校のときから父親にモトクロスバイクを買い与えられ、「バイク遊びを通じて家業を意識した」という
――そのような刷り込みを受けられたわけですが、進路はどのように考えていたのでしょうか。
家業を継ぎたいと思ったことは一度もありません。正直、カッコ悪いと思っていました。
小学生のときにWindowsの前身のパソコンを買い与えられて、コンピューターに興味を持ったこともあり、高校卒業後はプログラミングの専門学校に進みました。しかし、ちょうどWindows95が出て、インターネットという大きな変革の波が起きていたころ。パソコンでできることの幅が広がったことで、2年目から急に映画の撮り方や音楽の編集などに授業内容が変わってしまったんです。自分が学びたいものと違ってきたことと、クラブDJやイベント企画の仕事が忙しくなったこともあり、4年の予定だった専門学校を2年で辞めました。
その後、クラブでご縁がありITベンチャーの役員として働きました。1990年代半ば、世の中は就職氷河期で、今のようにスタートアップという言葉もないころですが、ITベンチャーの世界がキラキラして見えたんです。
ただそこで、自分の甘さを思い知らされます。成長産業なので、とてつもなく競争の激しい世界でした。まさに天才と呼ばれる人がたくさんいて、とても太刀打ちできなかった。任期満了とともに退任を決めました。
今思えば、もしうまくいかなくても家業を継げば生き残れるかなという思いが、心のどこかにあったと思うんです。そうでなければ、リスクも大きいベンチャー企業に行くという選択はしなかったでしょう。20代のときに、好きなDJの世界を経験するなどの、新しい挑戦ができたのは、頼りにして戻るところがある「アトツギ」ならではのメリットでした。「アトツギ」の皆さんは、若いうちに厳しい道にチャレンジしてみるといいと思います。
――役員を退任したタイミングで、家業に入られたのでしょうか。
2003年、ちょうどタイミングを見計らったかのように、そこで初めて父から家業を手伝ってみないかと誘われました。父も当時50代半ばに差し掛かり、事業承継を考え始めていたのだと思います。真面目な父ですから、先代から受け継いだ家業を、このまま締めてしまっていいものか、できるなら息子に継いでもらいたいと考えたのではないでしょうか。
――家業を継ぐことに不安はなかったのでしょうか。
カスタムジャパンの前身である「鶴橋部品」の財務諸表を見たら、わずかですが20年ほどずっと黒字でした。仕入れ方法と売り方を変えれば拡大が見込めると判断しました。きちんと家業を分析して、勝ち目がないなら最初から継がないという選択肢も考えるべきだと思います。
地元密着型ビジネスから
ECで国内外へ販路を拡大
――28歳で家業に入られ、まずはどんなことをされたのでしょうか。
まず、仕事もプライベートも含め、父との会話はすべて敬語に変えました。「親父」と言わずに、「社長」と言う。それまでまともに話をしようとしなかった息子が、急に「社長、分かりました」と言うので、父は気持ち良くなりますよね(笑)。気を良くしたところで父との会話を増やし、課題を把握していきました。というのも、親子関係がなぁなぁになっている会社をよく見ていたのですが、それはなんか違うと思っていたんです。社長が偉いわけではなく「社長」という役割なだけなのですが、やはり代表取締役は背負っているリスクの度合いが違います。そういう立場を明確にしたいと思いました。
当時の鶴橋部品は18時が定時だったのですが、18時5分には社員たちはみんな帰って行くのが普通でした。でも私は毎日深夜0時まで働きました。ベンチャー時代にハードワークには慣れていましたから。そうやって社員の2倍働き、成果を出そうと努めたんです。
村井社長が働き始めた頃の鶴橋部品。従業員は5人で、父親が堅実に経営していた
――2倍働き、成果を出された。
成果がすぐに出たわけではありません。今の業態のままでは限界があると考え、入社から1年半くらいで改革に乗り出しました。基本的に私は「TTP=徹底的にパクる」スタイルです。1994年にAmazonがアメリカで創業して、本のEC領域でどんどん伸びていました。家業のバイク部品領域で、このECプラットフォームを展開している会社はまだないな、と目をつけたんです。世の中のトレンドとして伸びているけれど、家業の領域にはないものを取り入れるということです。今ならシェアリングエコノミーやゲームアプリといった領域に注目したかもしれません。
そこで、バイクや自転車・自動車部品、工具をバイク販売店や整備工場向けに販売するECプラットフォーム「カスタムジャパン」を作りました。それまでは地元密着型のビジネスだったのを、インターネットを通じて販路を全国に拡大。最初から海外も視野に入れていました。ECサイトを運営する会社として2005年にカスタムジャパンを設立し、私が代表取締役になりました。
――鶴橋部品の新規事業、あるいは事業転換という形ではなく、別会社としてカスタムジャパンを立ち上げられたのには理由がありますか?
理由は二つあります。やはり長く続く家業を変えることになりますから、必ず抵抗勢力が出てきます。違う会社としてやれば大義名分が立つと考えました。
もう一つは、当時私がまだ20代後半だったので、商売をしていく上で「社長」という肩書きが効果的だと考えたんです。それを早く得るために別会社にしました。
――お父様はどんな反応だったのでしょうか。
父の中ではイエスとノーが混在していましたね。頭では分かっているけれど、プライドとしてはノー。それが行ったり来たりする中で、何度もケンカをしました。
最終的に、父には家業である鶴橋部品の会長という立場で、温かく見守ってもらうというスタイルをとりました。
大きな衝突はなかったのですが、高齢だったこともあり、当時、在籍していた5名の従業員は全員辞められることになりました。従業員がいないという状態になったため、最初は友人に来てもらったりしていました。中国から部品を仕入れるために、会社の向かいにあったコンビニで働かれていた中国人のアルバイト店員の方を引き抜いたこともあります(笑)。最初はヒト・モノ・カネ、すべてやりくりが難しかったですね。
――家業がベースにあるメリットは感じられましたか?
家業の人脈は非常に役立ちました。自分が一から人脈形成しようと思うと、会合や同業者会議、会食を相当数こなす必要があります。それが、先代の息子というだけで、100人、200人くらいのネットワークの仲間にすぐに入れてもらえるんです。
仕入れ先に関しても、私が入る前から付き合いのある会社に助けてもらいました。これらの人脈は、スタートアップだったらゼロですから、「アトツギ」はその点ではかなり恵まれていますね。
ECの展開により、仕入れや販売先もグローバルに。写真は伊ミラノの展示会に参加したときの様子
小さな市場だからこそ
勝てる方法がある
――お父様との関係性をうまくいかせるために、経験から得たノウハウがあれば教えてください。
事業承継をするということは、父の仕事をなくすことです。先代を暇にすることが事業承継の成功なので、当然そのプロセスで摩擦は起こります。当時まだ50代と若く、真面目な父は仕事をさぼりません。朝から晩まで会社で働き、時間ができる分、指摘もしたくなります。この状況はよくある話だと思います。
議論が必要な場合にお勧めなのは、車の中で話をすることです。面と向かって会議をするとケンカになるので、車の移動中にお互い前を見て話すんです。移動中ということは、目的地に着いたら終わります。時間にも限りができ、揉めにくいのです。
あとは、父の友人と飲みに行くことでしょうか。友人から父に「息子がんばっとるなぁ」と言われたら、父もうれしくなって「アトツギ」を応援するようになるんですよ。
休日はバイクに乗って出かける村井社長
――これから事業承継をする人にアドバイスはありますか。
株式の譲渡に関して、後回しにしたり、あまり勉強していない「アトツギ」が多いと感じます。できるだけ早い段階から話をしておいてください。税金を抑える方法など、今はインターネットやYouTube、書籍などで情報はいくらでも入手できます。先代の株を買い取り、いくら渡すのか、税金をいくら払うのか、株の譲渡はセンシティブな内容なため、早めにしっかり話しておいたほうが、あとあと揉めることがありません。当社の場合も、譲渡が終わると親子関係が円満になりました。
もう一つ重要なのが、税理士を変えることです。先代と長い付き合いのある税理士は高齢になっていることが多いですし、あうんの呼吸でやってきているため、財務諸表に対して、「ここの経費をもっと抑えられるのではないか」「これは無駄ではないか」といった客観的な指摘が入らないんです。私の場合はすぐに自分と年齢の近い税理士に変更して、フラットな目線で的確な指摘をいただけるようになりました。
――「事業承継とは?」一言で表すと何だと考えますか。
日本語でいうと「世々代々」。英語なら「サステナビリティ」でしょうか。事業を後の世代へとしっかりつなげてくための、持続可能な経済活動です。
今の日本は人口減など暗いニュースがたくさんありますが、そうはいっても国内の需要はまだ見込めます。成長が見込めない小さな市場こそ挑戦のチャンスですし、市場が縮小しているからこそ勝てる方法があると思います。「アトツギ」はラッキーですよ。ぜひ、挑戦してください。
■プロフィール
村井 基輝(むらい・もとき)
株式会社カスタムジャパン 代表取締役社長
大阪市生まれ。ITベンチャーの役員を経て、28歳で家業であるバイク・自転車・自動車部品卸業の鶴橋部品に入社。ECプラットフォームを立ち上げ、2005年にカスタムジャパンを設立、代表取締役社長となり、売り上げを10倍以上に伸ばした。
■スタッフクレジット
取材・文:尾越まり恵 編集:後藤文江(日経BPコンサルティング)