ユーザーに寄り添った改良がロングセラーの源泉
「ポンポン押せるハンコといえば、『シヤチハタ』」というほど、貴社は日本人にとって馴染みのある企業ですが、世の中に役立つ商品を生み出し、世に出す原動力はどこにあるとお考えですか?
もともと蓋を開けていても乾かないスタンプ台(「万年スタンプ台」)を作るというところから事業が始まりました。しかし、日本の高度経済成長のタイミングで、ハンコに朱肉やスタンプ台でインクを付けて、書類に押すという2アクションの動きでは遅いと考え、これからはスタンプ台や朱肉が必要なくなる時代がくると予見した私の祖父(創業者)が、ゴムの中にインクを浸透させて朱肉なしで押せる「Xスタンパー」や「シヤチハタ ネーム」を1960年代に開発しました。これは、弊社が常に世の中の役に立つ便利な商品をと考え続けていた結果だと思います。
当時「朱肉」や「スタンプ台」のメインユーザーは金融機関でした。今は分かりませんが、窓口担当の方の中には1日に1,000回以上ハンコを押す方もいらっしゃいました。それだけの回数を毎日押すことに耐えられる商品を愚直に改良しながら作り上げました。
その後、宅配便の受け取りや回覧板のシーンなどで家庭需要に入り込めたことで、ブランド認知が徐々に上がっていきました。その頃から今もまだ十分にできているとはいえませんが、ユーザーの意見に対して寄り添って、商品そのものや品質を変えていくという姿勢や行動が、今につながっているのではないかと考えます。
ロングセラーの商品の裏には、ユーザーの声に耳を傾け、繰り返し商品を改良する地道な努力があったのですね。
最初にハードユーザーをメインターゲットにして品質を構築していったことも大きかったのだと思います。家庭で回覧板や宅配便の受け取り時などでハンコを使う回数は、ビジネスシーンほど多くありません。それでも銀行窓口などビジネスユースの商品と同じ価格、同じ品質を担保することが必要だったのか。マーケティング的な視点で捉えると、正解とはいえないないかもしれません。家庭用の商品に関しては押印できる回数は減る代わりに価格を抑えるという選択肢もあったでしょう。
しかし、ビジネスと家庭用とを分けることなく1本にしたことで、非常に長く使える品質のよい商品ということで、逆にいうとブランド認知につながっていったとも考えられる。だとしたら、お客さまのお叱りを受けながら地道に改良を続けてきたことが、弊社の強みになっているでしょうね。
危機感が新商品開発のヒントになる
貴社は、主力商品であるスタンプ台を販売した後に、スタンプ台が必要ないインク浸透式の「Xスタンパー」を開発。朱肉不要のハンコで8、9割のシェアを持ちながら、その後、アナログのハンコとは正反対の電子印鑑の事業を始められました。自社商品を否定しながら発展を模索されるのは、代々受け継がれてきたDNAでもあるでしょうか?
「常に自社の商品を否定しながら」というのは、おそらくメディア様が作ってくださったとても美しい言葉ですが、我々からすれば、ただただ危機感をもって商品を開発してきたというのが正直なところです。創業者もスタンプ台にゴム印を押すというスタイルはそのうちなくなってしまうだろうという危機感から、もっと便利にポンポンと押せるものが必要だということで、「Xスタンパー」や「シヤチハタ ネーム」を開発しました。
電子決裁の事業に踏み出したのも、やはり危機感からです。1995年に、Windows95が出た頃から、企業の机の上にはパソコンが置かれるようになりました。将来的に、紙上でなされている決裁も、いずれ必ずPC上での決裁にシフトするだろうなと。ただ、紙の上でもデジタルドキュメント上でも、印影というものがなくなることはないと考え、ソフト開発を進めて電子印鑑のシステムを作りました。
その後も、機能の拡充だけではなく、様々なOSに対応したり、パソコンだけでなくタブレットやスマートフォンに対応できるようにしたり、さらには料金体系やサービス体系を整備するためにサブスクリプションを取り入れたりと、一歩一歩時代に合わせて進化を図ってきました。今の商材やサービスでは立ち行かなくなる可能性があるぞということで、必然的に次の事業を考えざるを得なかったのです。
とはいえ、今現在ユーザーから愛される商品がある中で、次の時代のリスクを感じ取って全く新しい事業に考えて動くのは安易なことではないはずです。
ファックスやコピー機などは日本ではまだ多いかもしれませんが、アナログの商品が減っていく流れの中で、オフィスのペーパーレス化の動きは確実に進んでいくでしょう。さらに、最近の働き方改革やDX、コロナ禍……といった環境も、弊社にとっては逆風といえます。今後は、電子決裁自体もっと便利な技術ができて、今の技術は要らなくなることも考えられます。ハンコや文具という小さな市場に身を置く者の定めなのかもしれませんが、同じところに安住することはできないし、変化をしないでいるほうがずっと怖いと思っています。
電子決裁事業については当初、時代が早すぎたということもあったのでしょうか。
すぐに起動に乗ったわけではなかったそうですね。実際、1995年からサービスを始めましたが、最近まで鳴かず飛ばずの時期が続きました。毎年2億円ほどの売り上げはあったものの、人件費や開発費を考慮に入れると事業採算としては赤字続きでした。ただ、今後オフィスなどで紙の需要が増えるということは考えられない。必ず、電子決裁が事業として成り立つタイミングがあると信じてやってきました。皮肉にも、コロナ禍に背中を押される形で、好調に推移するようになりました。
IT企業が参入する電子決裁の世界で独自の印章のフォントを強みに躍進
電子決裁の未来のために、競合よりも協業を目指す
貴社はハンコ、文具の業界では初めて電子決裁の事業を始められました。この分野には、近年I T企業も続々と参入してきています。勢いのある異業種のライバル企業も増えていますが、その中で貴社の優位性はどこにあるとお考えでしょうか。
セキュリティ上、電子署名に印がなくても成立するため、電子決裁事業をされている企業の中には、デジタルドキュメントに判子は必要ないと考えておられる企業も多いでしょう。
しかし、我々は25年以上もの間このサービスを続ける中で、2001年に政府が打ち出した「e-Japan戦略」をはじめ、さまざまな時代による変遷を目の当たりにしてきました。当時、政府の意向として電子署名にはハンコを押さなくてもいいということなどが取り決められましたが、結局ほとんどが形骸化の傾向にあります。ユーザーに話をうかがうと、セキュリティ上は成立していても、誰が承認したのかがわかる印(しるし)がなければ不安だし、使い勝手が悪すぎるという声が非常に多かった。その点では、我々はハンコという印(しるし)を持っていますし、その文字、そしてパソコン上のフォントも自分たちで作ったものです。アナログとデジタルの両方を持っていることが、価値になるというのを信じてずっとやってきましたし、優位性にもつながっていると感じています。
ただ、我々としては、ライバルといわれるI T業界の企業と競合するつもりは全くありません。互いに技術を提供し、競合するよりもむしろ協業したいという気持ちのほうが強いんですよ。
早い時期に電子決裁に着手されて、25年という歳月を重ねてこられたのも、貴社のストロングポイントなのでしょうね。
長年、ユーザーの意見をお聞きすることができているというのは、我々の力にはなっているでしょうね。
昨今、我々がユーザーに話をお聞きしていて感じるのは、会社のインフラが整っていない段階で急にDXと言われても戸惑う企業が多いことです。実際に働く人にとっては、業務のやり方がころっと変わってしまうのでハードルが高いという声も聞きます。そのため、我々が提供する電子決裁のサービスは、できる限りアナログでもデジタルでも、作業の流れが変わらない仕組みづくりを心がけてきました。紙にハンコを押すのと同じような感覚で、パソコン上でも印が押せるということが特徴です。弊社では「BPS=ビジネスプロセスそのまんま」というのを合言葉に、ユーザー様のDXのファーストステップを乗り越えるお手伝いをしたいと考えています。
そしてもう1つ、初期の導入コストのハードルもできる限り下げてほしいという声に応えて、どれだけ使っても月額1印影110円からという価格を設定しています。IT業界の相場からすると、とんでもない値付けですから驚かれます。しかし、何度でも押せるハンコを1,595円で販売してきた我々にとっては、至極適正な価格なんです。
電子決裁の今後は、どのようになると考えておられますか?
今後は電子決裁の分野もさまざまな可能性が出てくるでしょう。我々も、ユーザー企業様から、例えば「出退勤のソフトが一緒にあると便利だよね」「名刺管理のソフトもあるといいな」「チャット機能が付いているとより使いやすい」といった声をいただいています。現在はそうした声を拾い、他社と組んでソフトウェアを開発していこうと考えています。A社からZ社までご要望を聞きながら、1印影110円のところを200円、300円と少しずつ料金を加算し、1社ごとにカスタマイズする形で付加価値をお付けしていく展開を目指しています。
偏った発想を脱すため、外からアイデアを発掘
アナログ商品の中からも新しい商品が生まれています。20年以上も前から「シヤチハタ・ニュープロダクト・デザイン・コンペティション」というデザインコンペや、産学連携の商品企画のコンペを行うなど、外部からのアイデアも積極的に取り入れておられますが、これにはどのような思いがあるのでしょうか?
我々のような、ある意味保守的な小さなメーカーでは、開発や企画の場面でも、スタンプのことばかり考える偏った発想になり、どうしても視野が広がらないのが弱点です。
リーマンショック以降、企業の事務用品を買う姿勢が変わったことから、BtoBにとどまらず、BtoCも含めて広くニーズを掴む必要を感じてきました。そこで、ユーザーが何を望んでいるかということをタイミングよく、広く取り入れて勉強していかないといけないという考えからコンペを開いています。すると、「ああ、こんな考えがあるんだ」という新鮮な発想に驚かされることが多々あります。
例えば、「おててポン」は、名古屋の芸術大学の学生の企画から商品化しましたが、目の付け所が大変面白い商品です。手にバイキンマークのスタンプを押して、約30秒間石鹸で洗えばきれいに落とせるという、子供の手洗いの練習のための商品です。本来、ハンコは消えないで証を残すものですが、消すためのハンコという発想は、我々ではなかなか思いつかない。コロナ禍で、手洗いの習慣が見直されたことで、大きな反響をいただくことができました。
また、デザインコンペから生まれた彩りが美しい朱肉「わたしのいろ」も従来なかった発想です。朱肉というと朱色のものしか世の中にはありません。でも、法律上、朱肉は朱色でなければいけないという規定はないですから、業種によっては他のカラフルな印があってもいいはずです。例えば、バーのマスターがお客様に領収書を渡す時など、遊び心のある色の印を押すと粋ですよね。そういう目線に驚かされるとともに、型に捉われないアイデアをいただくメリットを改めて感じています。
アナログ、デジタルを問わず、印(しるし)の価値を守りたい
コロナ禍でリモートワークが進む中、脱ハンコという言葉がニュースなどでも取りざたされました。長年ハンコを商材として扱ってこられた御社として、ハンコ文化を守るという使命についてはどのように感じておられますか?
ハンコというのは「承認した」「合意した」ということの印。そういう意味では、アナログの書類上でも、PCやタブレット上であろうとも印(しるし)の価値を信じて、これがないと困ってしまうと思っていただけるサービスを続けていかなくてはいけないと思っています。
ハンコ屋さんの多くは、デジタルドキュメントの印影は印章ではないとおっしゃいます。しかし、長年ハンコ、文具業界にいる我々が、デジタルでハンコという印(しるし)を付けて電子決裁する事業をやらなければ、文具や印章業でやってきたものがすべてIT業界に移ってしまうという未来も考えられます。我々は自分たちの危機感として取り組んでいることですが、ふと周りを見渡すと、ハンコや文具業界で電子決裁をビジネスにしている企業は弊社しかありませんから、そういう意味で使命は重いと勝手に思っています。
ハンコやスタンプを印(しるし)を付ける道具として捉えれば、文具やアートクラフトなどの分野でまだまだ楽しいことができると思いますし、手に押す商品が出てきたことからサニタリー部門でも面白いものができないかと構想中です。楽しい印(しるし)で遊んだり、便利に使ったりするなど広義に捉えることで、ハンコ文化の可能性を広げていきたいし、ハンコ文化を未来につないでいきたい。そういう意味では、チャレンジあるのみ。失敗をしたらそこから学び、成功したらそれを積み重ねていく。それしかないと考えています。
■ プロフィール
舟橋正剛(ふなはし・まさよし)
シヤチハタ株式会社 代表取締役社長
1965年、愛知県生まれ。米リンチバーグ大学経営大学院修士課程修了。1993年に電通に入社し、大手家電メーカーを担当。その後長野五輪に携わる。1997年、自身の祖父とその兄が創業したシヤチハタに入社。1999年に取締役、2000年に常務、2003年副社長を経て、2006年に現職。
■ スタッフクレジット
記事:宇治有美子 撮影:古川公元(アトリエあふろ) 編集:日経BPコンサルティング