直売所のマンゴーが生んだ“宮崎のお父さん”との縁
パルメロとの出会いには、どんな経緯があったのでしょうか。
奥田:サッカー選手は職業柄、所属チームのホームがある地域に移り住むので、以前から各地の名産品を手土産や贈答用に購入していたんです。宮崎に来て、たまたま入った直売所で買ったマンゴーがあまりにおいしくて、生産者の方が複数いる中で、一番おいしいものが「黒木栄寿」さんのマンゴーだと聞きました。それ以来ずっとその直売所で黒木さんのマンゴーを買って、いろいろな人に贈っていました。
あるときその直売所が閉まってしまうと聞いて、「これからもこのマンゴーが買いたいし、どんな人がどんなふうにつくっているのか知りたい」と思って直売所の方に黒木さんに繋いでいただいて電話したんです。でも、電話をしても全然出ないんですよ。あきらめずに何度も何度もかけていると、ご家族が出てくださって、電話口のご家族にとにかく熱意を伝えて、会いに行きました。最初はそっけなかったですよ。「誰やおまえは?」という感じで(笑)。
黒木:最初は会うのも断ったんだけどな(笑)。でも、何度もおいしいと言われるとこっちも嬉しいし、よかったら譲ってやるよと言ったら、「ぜひお世話になった人たちにも贈りたい」ってたくさん買っていってくれて。それからちょくちょく来るようになって、そのたびにマンゴーを試食させてたんだけど、あるときパルメロを出したの。そしたら次から、これまで出してたアーウィン種を食べないんだよ。「パルメロないですか?」って(笑)。
奥田氏をとりこにしたパルメロ。香りや甘さが強く、みずみずしいのが特徴。
奥田:「これ食うか?」って出してくれたパルメロが、今までのものとあまりに違いすぎて、びっくりしたんです。これをもっといろんな人に贈りたいと相談したら、「じゃあ一緒につくってるグループに会わせるよ」と、パルメロの生みの親である鬼塚さんをはじめとする、檬栽師組の皆さんを紹介してもらいました。
鬼塚:黒木さんから「変なやつではないから」って言われたから、信頼してお会いしたのが、檬栽師組と奥田くんとの出会いですね。
檬栽師組とは?
宮崎のマンゴーづくりを支えてきた農家6名からなるグループ。マンゴーは漢字で「檬果」と書き、それらを「栽培」するだけでなく、「伝道師」として次世代へつないでいくことを目指して結成された。鬼塚さんや黒木さんのほか、いずれも“マンゴー王国”の歴史を築いてきた達人がそろっている。
まったく縁もゆかりもなかった奥田氏と、今では濃い関係になっていますね。
黒木:やっぱり話してみて、最初から人柄がいいなって思ったよね。しかも「お父さん、お父さん」って慕ってくるもんだから、一緒に飯食いに行ったりしてね。誕生日には気を利かせてプレゼントを持ってきたりするし、もう家族みたいな感じのつきあいになってるよ。頼まれてサッカーの応援横断幕もつくったしな(笑)。
奥田:僕も、会う回数を重ねていくうちに、檬栽師組の皆さんの職人としての魅力に引き込まれていきました。サッカー選手もある意味で職人なので、プロフェッショナルについて、この人たちから学びたいと素直に思ったんです。そしてこの素晴らしいパルメロを世に広めたいという気持ちが高まって、販売戦略のアイデアなどをお話ししていたんです。
大切にされているパルメロの販売を託せると思ったのはどうしてですか。
鬼塚:僕も実直な青年だと思いました。うちの家内も「奥田くんだったら、いろいろと一緒にお仕事をしても大丈夫」と太鼓判を押してましたから。僕たちは基本的にアーウィン種というマンゴーをメインに生産しています。パルメロは出荷まで時間もかかり、まだ価格も安定していません。では、パルメロの知名度を上げるために積極的に情報発信をできるかというと、栽培で手いっぱいでとても無理。そんなときに、本当にパルメロに惚れ込んでいる彼が現れた。プロサッカー選手だから顔も広いし、アイデアや意見をどんどん出してくれる。彼の熱意に打たれましたね。これは僕たち檬栽師組にはできないことだなと。
マンゴーの栽培は、がんばっていれば必ず収穫できるというものではなく、うまくいかない年もあります。しかも、樹から自然に落下する完熟マンゴーはいつ出荷できるかわからない。でも、流通業者の多くが「今週中に100個できますかね?」という感じで、長年つくっている僕たちでもわからないことを聞いてくる。奥田くんはそこを理解してくれて、僕たちに寄り添ってくれる。だから任せられるなと思いましたね。
奥田:パルメロの宣伝や販売をお願いしたいと言われて、最初は正直迷いました。現役のサッカー選手なので。でも、チーム全体の練習は午前中だけで、午後は空いている時間があります。実際、今までその時間を使って年に100回程度は皆さんの栽培ハウスを訪ねていました。休みは週に1回ありますし、オフシーズンは1か月半の休みが取れます。筋トレや体のケア、個人練習の時間を差し引いても、動ける時間がある。自分の遊ぶ時間やだらだら過ごしていた時間を減らせばできるんじゃないかと、心が決まりました。
奥田氏が「お父さん」と慕う、黒木栄寿(くろき・しげとし)氏(右)と、パルメロの生みの親、鬼塚高幸(おにつか・たかゆき)氏(左)
父のつくった会社を違ったかたちにして受け継ぐ
そして、起業することになるのですね。
奥田:今のチームの前は鳥取がホームのチームに所属していたのですが、僕が鳥取にいるころ、父が病に倒れて仕事が続けられなくなってしまいました。父は電気工事の会社を営んでいたので、僕がサッカーを辞めて会社を継ぐことも考えました。でも、父は僕がサッカーを続けることを望んでいたこともあり、そのときに声をかけていただいていた、現チームのテゲバジャーロ宮崎に加入しました。父亡き後は母が会社を切り盛りしてくれました。
あるときその母から「そろそろ会社をたたもうと思う」と打ち明けられ、再度すごく悩みました。父の思いを引き継ぎたいと思ったのですが、今から電気の技術や資格を身につけようとしたら最低7年はかかるとわかったからです。
黒木さんや鬼塚さんたちと親しくなってパルメロの販路拡大を相談されたのも、ちょうどそのタイミングでした。父がいなくなってからの僕は、仕事や会社のことだけでなく父の夢や好きなことなど、もっといろいろな話をしておけばよかったと後悔していました。一緒にお酒を飲んで語り合うこともできたのに、サッカー選手だからと、父に勧められてもお酒を断ることもありました。父にできなかったことを、父が残してくれた会社を通して何かできないだろうかと考えたとき、父がつくった有限会社奥田電気を株式会社化して、定款と社名を変更して残そうと思いました。事業承継ではないけれど、父がつくったものを僕がかたちを変えて受け継いでいこうと。そこからはすべてが勉強でした。商学部卒とはいえ、登記変更をはじめ、企業の実務はわからないことばかり。ましてや実際の経営はゼロからのスタートなので、本を読み、経営者の方々に教えを請うなど、今も毎日が学びの日々です。
サッカー選手とマンゴーの販売会社、まったく異なるジャンルですが、それまでの経験が役に立ったことはありますか。
奥田:はい。何の仕事でも一緒だと思いますけれど、自分に任せられたタスクに真面目に取り組んでいると、必ず道が開けていくのはサッカーもマンゴー事業も同じだと思います。僕はサッカー選手としてはエリートではないかもしれないけれど、真剣にやっているといろいろな人が支えてくれます。同じように、パルメロの宣伝・販売も地道に続けることで、助けられて少しずつ販路が広がってきました。自分自身、何か特別なスキルがあるわけではないんです。今、自分に与えられているものに感謝しながら一生懸命やっていると、必ず誰かが見ていて評価してくれると実感しています。
Jリーガーとして積極的に地域貢献に取り組まれてきたと思いますがパルメロの広報や販売も地域貢献の一環として取り組まれているのでしょうか。
奥田:僕はそう考えています。宮崎は樹の上で完熟させ、ネットで受け止める完熟マンゴーの技術を生み出し、日本におけるマンゴーのトップブランドとしてその座を守ってきました。しかし、最近は九州や四国だけでなく、北海道でもマンゴー栽培が行われていて、その差が少しずつ縮まっています。今のうちに、パルメロのブランド化ができれば、宮崎のマンゴーは一歩先を行き、トップの座が守れるんじゃないかと考えています。
パルメロは宮崎のマンゴーの生産量からすれば0.2%もないですが、和牛の世界で尾崎牛というブランドが宮崎牛の価値を高めているのと同じく、パルメロが宮崎マンゴーのブランド価値を高めたら、それが地域貢献にもつながるんじゃないかと。僕にとって、サッカーもマンゴー事業も人のため、地域のためのものなんです。
自分のためではなく、人のためなのですね。
奥田:正直、昔はサッカーをしていても、自分のためという意識が強かったと思います。でも、試合に出て活躍することで、サポーターや地域の皆さんが喜んでくださる姿を見たとき、自分のためだけに何かをやるよりずっと楽しいと気づきました。マンゴー事業でも、自分が関わるようになってから、農家の皆さんにkg単価あたりで2倍以上の金額が渡せるようになったときに、「ありがとう」「本当によかった」と言ってもらえました。自分の幸せが1だとしたら、人の幸せはその何倍にもなるんだと実感しています。
頼まれごとは、試されごと。自分の成長がみんなのためになる
ご自身にとって転機となった出来事や印象に残っている言葉はありますか。
奥田:鳥取にいたころにお世話になっていた元山陰合同銀行常務で、現在学校法人翔英学園理事長をされている中ノ森寿昭さんに、こんなことを言われたことがあります。
「奥田くん、サッカー選手はすごく限られた世界で生きているんだよ。週6日サッカー選手と一緒にいて、毎日サッカーの話をし、休みの日もサッカー選手といたりする。でもね、日本や世界にはいろいろな人がいて、いろいろなことをやっている。知らない世界を知ることは、すごく楽しいことだよ」と。
ちょうど当時の監督も「裕貴、イビチャ・オシムが言うとおり、サッカー選手はピッチではなくグラウンドの外で成長するんだ」と言っていたんです。それで、自分の見せ方や振る舞い方といった自己マネージメントの一環として経営の勉強もするようになりました。特に、何かの分野で成功している人には必ず何らかの理由があり、そこから学べるヒントがあるはずだと、そういった方々とお会いする機会があると、心に残る言葉を毎回必ずノートにメモしていました。
テゲバジャーロ宮崎ではディフェンダーを務める奥田氏。©TEGEVAJARO MIYAZAKI
1つ1つの出会いや言葉を流さずに、自分の行動に変えていったのですね。
奥田:同じ環境にいたほうが楽だけれど、成長しようと思ったら、自分に少しだけストレスをかけたほうがいいんです。ある本に書いてあった「頼まれごとは、試されごと」という言葉も自分の好きな言葉です。テゲバジャーロ宮崎から声がかかったのもそうですし、黒木さんたちと出会って始まったマンゴー事業もそうです。頼まれるということは、おまえできるのか?と試されることだし、拒否したらその時点で成長のチャンスがなくなってしまう。だから檬栽師組の皆さんから「奥田、頼む」って言われたとき、「1年間独占販売権をください。売れなかったら返します」と宣言し、サッカーみたいに結果で自分の働きを見てもらおうと決めました。
おかげさまで、パルメロは毎年ニュースにも取り上げていただけるようになりました。多くの方々から高い評価をいただき、その分、農家の皆さんにも還元できるようになっています。これからも、僕を育ててくれた“第2のふるさと”宮崎のために、そして、僕に会社を残してくれた父のためにも、目の前のことに集中し、正直に一生懸命がんばっていきたいと思います。
■プロフィール
奥田裕貴(おくだ・ひろき)
テゲバジャーロ宮崎/株式会社OKUDA 代表取締役
1992年生まれ。大阪府出身。和歌山県の強豪、初芝橋本高校から明治大学を経て、プロサッカー選手に。2019年にテゲバジャーロ宮崎へ加入。宮崎で出荷量No.1を誇るマンゴー農家、黒木栄寿さんとの出会いから、“幻のマンゴー”パルメロを知る。栽培農家グループ檬栽師組の“右腕”として、パルメロの販売と広報を担うべく起業し、プロサッカー選手と販売会社社長という二足のわらじで活躍中。
新希少種マンゴーパルメロ(外部サイトに移動します)
■スタッフクレジット
写真:松隈直樹 取材・文:小林 渡(AISA) 編集:日経BPコンサルティング