組織改革で応募倍率1,000倍の企業に
0から1は難しくても、1を10にしたい
京都大学で経済を学ばれた後、東京のベンチャー企業に就職し2004年に実家である平和酒造に戻られました。当初からいずれ実家の事業を継承することは視野にあったのですか?
長男に生まれて、小さいころからお前が継いでくれたらと言われていましたので、いずれ家業を継ぐという意識はありました。小学生の頃から日経新聞の「私の履歴書」を愛読していて、錚々たる方たちが起業し社会の成長とともに一気に駆け上っていく戦国大名のような姿にあこがれを感じていました。中学生の頃にベンチャーという言葉を知り、まさにイメージが重なったことを覚えています。
大学卒業後に人材系のベンチャー企業に入社したのは、酒と関係のない業種で働けるのはこの時期しかない、ベンチャースピリットを学びたいと思ってのことです。
入社した会社は、ハードにそして自由闊達に働く組織でしたので、学ぶことは非常に多かったのですが、起業家として0を1にする力は、まだ自分にはないと感じたのも事実。たまたま父が体調を崩したこともあって、実家の酒蔵を1から10にすることならできるのではないかと考え戻ったのです。ですから、当初は夢破れて戻ったという思いを抱くことも正直ありましたね。
戻った当時の平和酒造の状況はどんな状態だったのですか?
ほぼパック酒だけを生産していました。日本酒業界は50年間、右肩下がりの産業です。ピークの4分の1まで生産量自体が落ちてしまっている。その中でも特に衰退しているのがパック酒です。蔵自体は荒れ放題でしたし、コスト勝負の商品のために賃金を抑えて長時間働くことに、蔵人(酒造りにかかわる職人)の心もすり減っていました。大量生産の低付加価値商品で売り上げを伸ばすには限界があります。このままでは20年、30年先はない。酒蔵を残すには大きな変革が必要な状態でした。
目指したのは蔵元2.0。古い因習を払拭する組織改革
伝統産業である日本酒業界は、長年、オーナーである蔵元と、現場の最高製造責任者である杜氏の完全分業制でした。90年代には、蔵元自身が杜氏を兼ねる「蔵元杜氏」という経営スタイルが登場しましたが、選ばれたのは、それとはまた異なる変革です。
蔵のオーナーが製造の長である杜氏を兼ねるメリットは確かにあります。経営者の製品への思い入れがダイレクトに反映でき、お客様にも届きやすい。しかし、そのスタイルしかないとしたら、日本酒業界のアップデートはできないのではないかと思ったのです。杜氏まで独占してしまったら、蔵人の目指すポジションを奪うことにもなります。
かつての蔵元は、ビジネスとして経営はしても、日本酒の品質やブランド作りに興味や熱意が薄いことが問題だったわけです。作り手も売れるかどうか、お客様に思いまで届いているのかには無関心だった。製造と販売の分離は無責任さを共有できるシステムにもなっていた。それに対してやるべきこと、やり方をきちんとアップデートしていきたい。私は大げさに蔵元2.0と言っているのですが、ある種のベンチャースピリットを取り込めたら、日本酒業界はもっと面白くなるんじゃないかと思っていました。
そのために具体的にどんなことに着手されたのですか?
1つは組織改革で、古い因習や労務形態の改善です。もう1つはプロダクトの高品質化です。
最初に手掛けたのは季節採用をやめ、通年採用にすることでした。冬に仕込む酒蔵は、農閑期の仕事場という側面もあり、伝統的に季節雇用でした。その雇用形態もあって若い人は少なく、杜氏は60歳、70歳という酒蔵が多い。若い人を正規雇用しようと、戻った翌年である2005年から新卒採用を開始しました。しかし、しばらくの間定着率は非常に悪かったのです。
採用した新卒者が辞めていった背景にはさまざまな事情がありますが、最大の要因は旧態依然とした育成制度です。日本酒業界だけではないと思いますが、職人気質で、言葉で教えようとしない。「見て盗め、盗んで覚えろ」という姿勢です。ベテラン職人にしてみれば自分たちもそうやって身に付けてきたわけですが、今の若い方は、教えてもらうのが当たり前の中で育ってきている。教えてもらえないことに、働きづらさを感じてしまいますし、モチベーションを維持できません。
私が目指したのは、そうした職人気質を脱した酒蔵です。例えば、単に「早く水を持って行け!」と言われたら相手の機嫌が悪いせいで頭ごなしに言われたと思いかねません。しかし、今の作業工程で水が必要になるのはどんなときか理解できていれば、迅速に対応することの意義を感じられます。
話し合いを重ねぶつかりあいながら、それでも必要なことだからと説得して酒造りの工程をすべてオープン化し、共有できるようにしました。若い蔵人たちに、自分が担当する作業の意味も目的もわからないまま指示通りに働くだけの人になってほしくなかったのです。
情報のオープン化、マニュアル化にはさまざまな軋轢も抵抗もありました。彼らの気持ちは今となっては痛いほどわかりますし、私ももう少し伝え方や、やり方があったかなと思います。ただ、あのときに衝突があったからこそ、自分の目指したいことが伝わったところはある。もう少しうまくやれたかなと思う反面、避けて通ることができない衝突だったと感じています。
新卒の応募倍率が1,000倍になる人気企業に
情報の共有だけでなく、酒造りの実践のためにはどのような育成をされているのですか?
入社後はジョブローテーションで、畑、瓶詰め、ラベル張り、事務所、日本酒、梅酒などすべての部署を約3年かけて経験してもらっています。多角的に会社の業務と役割を理解してほしい、花形に見える部門もそうでない部門も、会社を支えることにおいては同等であることを理解してほしいからです。
酒造りについては、杜氏による社内研修のほかに、いい酒を造っている酒蔵さんに勉強に行かせていただき、特に南部杜氏の講習会には、今も毎夏行って製造技術を勉強させていただいています。学びながら、酒蔵の製造設備を改革したり、酒造りのやり方を変えたりして和歌山の地に合う酒造りを試行錯誤していきました。
いいものを造ろうとしたら、いいお酒の状態を理解することが非常に大事ですから、利き酒研修も毎日行っています。もともとは、毎日50種類以上の利き酒を自分自身に課していたのですが、私だけがするのではもったいないので、社員全員にやってもらうようにしたのです。
正規雇用にしてそれだけの研修を行う。経営的には負担も少なくありませんね。
前職の人材派遣の会社で働いているときに、中核人材は正社員でしか雇えないし、幹部層にどれくらい優秀な方たちがいるかは、会社を形作っていく大事な要素だと感じていました。
人を採用することは、非常にリスクとリターンが相まっている行為です。1人採用し年収400万円を出すには、会社としては600万円ぐらい負担することになります。10年働いたら6,000万円、10人雇ったら6億円です。これをどう捉えるかは経営者の考えが表れるところです。私は、社員をコストと考える経営者のことも理解できますし、未来への投資という考え方も理解できます。そのどちらの考えでもなく、なんとなくやってしまうことが一番良くないのではないかと思っています。当社は、幹部候補を採用して育てたい、未来への投資という考え方です。
07年に大卒新卒の採用第1号が誕生して以降、例年就職サイトを活用して募集を行っていますが、和歌山の小さな酒造メーカーに、毎年1,000人以上からの応募があります。長期縮小傾向にある日本酒業界ですが、みんなで築いてきたものが少しずつ実を結んできたという実感があります。
商品改革と人を育てるチャレンジで国際的評価を獲得
小さな成功を積み重ねることで、自信と信頼を得る
商品開発では、和歌山に戻った翌年、05年に和歌山産の果実を使ったリキュール「鶴梅」をリリースして大ヒットさせています。なぜ梅酒だったのですか?
理由の1つが、父の時代にパックの梅酒を造っていたためノウハウがあったことです。梅酒ブームの予感もありました。さらに和歌山県は全国の梅の生産量の50%以上を誇り、産地として名高い。アドバンテージがあると考えました。
父からは、まず本業の日本酒に着手すべきだと言われましたが、競合が少なく、自分たちが勝てる可能性が高いところから始めよう、徹底して味を追求した高品質な梅酒造りをすることで、社員にもこういうやり方があることを知ってほしいという思いがありました。
販売先も、これまで付き合いのあった卸を通さずに地酒のいいものを扱っている小売店、1地域1店舗に限定。これも周囲からは反発がありましたが、小売店にとってはほかで安売りされることなく、この店でなければ買えないという付加価値が生まれます。平和酒造にとっては、商品の価値を理解していただいている小売店によって、情報も含めお客様に届けていただけるという好循環が生まれていきました。初年度「鶴梅」の出荷量はボトル換算で5,000本でしたが、現在では40万本を超えています。
最初から大きな成功を狙う方法もありますが、小さくてもちょっとした成功を積み重ねていくことで自信が付きますし、周りの見る目も変わってくる。その意味でも、まず「鶴梅」からスタートしたことはよかったと思っています。
若手の学びの場を増やし、モチベーションを高める
次に目指したのが、看板商品となる日本酒造り。08年には「紀土(きっど)」をリリースしています。99%紙パック酒だった酒蔵から、組織改革をしながらの挑戦でしたね。
「鶴梅」の成功だけで社内が100%まとまったかというと、全くそんなことはなく、「紀土」を造りながら、すったもんだしぶつかり合って品質を高めブランドを作っていきました。発売までに3年を費やし、売り上げが1億円を超すまでに6年を要しています。
その間に、休耕田を利用して自社で山田錦の栽培も始めるなど、さまざまな取り組みを行っていますが、特徴的なのはチームで造るタンクのほかに、蔵人が一人数本のタンクを担当し、酒造りの全工程を一人で行う「責任仕込み」を実施していることです。杜氏が助言はしますが、酒造りを一から十まで知ることができ確実に技術を身に付けることができますし、誰が管理した酒がどのような仕上がりになったかが明確になります。
何が違うのか、もっとおいしいお酒にするにはどうしたらいいのかという探求心も生まれます。タンク1本には一升瓶約2,000本分の酒が入りますから、失敗したら数百万円の損失ですが、任せてやってみることで得られるものの方が大きい。蔵人一人ひとりに育ってもらうことが、平和酒造の未来を作っていくと思っているのです。
こうした努力が実を結んだのが、2020年12月に世界で最も権威あるコンテストの1つとされるIWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)のSAKE部門での優勝です。私がしたことと言えば、杜氏一人が考えるのではなく、よりよい酒を造るためにどうしたらいいかをみんなが自発的に考えブラッシュアップしていくチーム作りですが、今までやってきたことは誤りではなかったという思いですし、チームが育った実感が得られました。
コロナ禍前から取り組んだ働き手の意欲と売り上げを下げない布石
コロナ禍により、飲食店に対して酒類の提供自粛要請が出されるなど日本酒を取り巻く環境も大変厳しいものがありました。その影響はいかがだったのでしょうか。
大変な状況ではあったのですが、2つの意味で、何とかコロナ禍前と同水準を維持できました。
1つは、酒造りへの意欲を下げずに済んだことです。平和酒造ではもともと消費者や業界の関係者に日本酒を広く知ってもらうためのイベントには、蔵人に出向いてもらっていました。蔵人たちが自分の造った酒を説明しお客様と会話をする中で、モチベーションを上げたり、気づきを得たりして、現場に活かせるからです。コロナ渦でそうしたイベントが全てなくなってしまいましたが、20年6月に和歌山市内に平和酒造初のアンテナショップ「平和酒店」をオープンしています。蔵人たちは店頭に立つことで、お客様との接点を持ち反応をリアルに得られる機会を失わずに済んだのです。
もう1つは海外輸出の伸びが国内売り上げの落ち込みを支えてくれたことです。19年は全売り上げの10%が輸出によるものでしたが、21年は20%にまで伸びています。現在30ケ国に輸出していますが、私はコロナ渦前には年に12回の海外出張を自分に課していました。そうやって、リアルで何度も会って関係性を作っていたおかげで、Zoomなどでweb会議をしても円滑にコミュニケーションがとれる。海外では政府によるロックダウンが解かれると、普通の生活に一気に戻りましたので、ニューヨークなど欧米の都市では、食材やお酒が足りない状況になり、むしろオーダーが増えたのです。
コロナ禍前には、杜氏にも年3回くらいのペースで海外出張してもらい、一般社員も含めると年間30回ほどに上ります。そういう機会も意識的に作ってきました。
伝統産業の小規模な組織では、全く新しいことを社員の一人が提案して立ち上げるのは難しい部分があります。新卒採用も、研修制度も、海外出張も、初期は私が全て関わり、ある程度ルーティン化できたら、広げていっています。以前は完璧に自分でやらなければという意識がありましたが、ようやく細かく指示しなくて動ける組織作りができてきたかなと思っています。
椅子取りゲームに加わるのではなく、新たな椅子を自分たちで作る
今後予定している取り組みを教えてください。
22年6月には東京・日本橋の兜町に、「平和どぶろく兜町醸造所」という名前で、どぶろくを醸造し、造り立てをその場で飲んでいただけるブリューインパブのようなスタイルの店を立ち上げました。
これまでにも中田英寿さんや堀江貴文さんとのコラボ、世界的なテクノアーティストとのコラボイベントなどさまざまな取り組みをしてきています。ご縁があって新しいチャレンジの機会を得たら、精神的な部分も含めシャットアウトしない。まず「やらせてください」というところからスタートし、ではどうしたらできるか、何ができるか、現実的なところに落とし込んでいきます。
日本酒業界の中で新しいことをしたいと思っていますし、それが自分たちの活路だと思っています。長期縮小傾向にある産業で人口自体が減少していく。どんどんパイが小さくなっていく中で奪い合いをしても意味がない。椅子取りゲームで椅子を取り合うよりも、自分たちで椅子を作って座っていきたいですね。
成功にはメソッドがあるわけではなく、その都度トライアルアンドエラーを繰り返しながら、逃げずに対峙していく。その行為自体が尊いものであり、次へのステップになると思っています。
■ プロフィール
山本典正(やまもと・のりまさ)
平和酒造株式会社・四代目
1978年、和歌山県生まれ。京都大学経済学部卒業後、ベンチャー企業を経て2004年実家の酒蔵に入社。四代目として伝統的な酒蔵の組織・人材改革を手掛け、自社ブランドの商品を開発し、リキュールの「鶴梅」、日本酒「紀土」シリーズのほかクラフトビール「平和クラフト」も展開。「紀土 無量山 純米吟醸」が世界最大級のワイン品評会IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)2020のSAKE部門で最高賞に選出された。
■ スタッフクレジット
記事:中城邦子 撮影:小竹 充 編集:日経BPコンサルティング