鎌倉後期からの継承を続けるための、ケからハレへの進化
日本の歴史において木桶はどのような存在だったのか教えてください。
鎌倉後期から室町時代にかけて大陸から日本に伝来した木桶は、江戸時代に台鉋(ダイカンナ)が普及したことで爆発的に広がりました。「産湯の湯桶から棺桶に至るまで」というように、生まれたときの産湯に使うタライから、ごはんを入れるおひつ、酒や味噌、醤油を入れる木樽、お風呂の浴槽、風呂桶、洗濯するタライ、そして亡くなった時に遺体を納める棺桶まで、木桶とともに日本人の生活はありました。昭和初期まで、各家庭に30〜40個の木桶はあったと思います。それが工業製品やプラスチックの素材に取って代わられ、どんどん木桶が使われなくなりました。祖父の中川亀一が、老舗桶店のたる源に入門した頃は京都市内に200軒あった桶屋が、僕が修業を始めた頃にはわずか3軒と急激に減ってしまいました。昔は木桶と寿司桶、おひつ、その3つを作っていれば桶屋は食いっぱぐれないといわれていたのですが、もうそれすら売れないのが現状です。
木桶がそうした状況にある中で、中川木工芸はどのようなもの作りをされてきたのでしょうか。
中川木工芸は、たる源で修業を積んだ祖父が1961年に京都の白川に工房を構えたのが始まりです。当時の木桶は、工芸というよりは、むしろ下手物(げてもの)と呼ばれた日常雑器だったのですが、たる源の大将や祖父は、「床の間に飾られるような美しいものにしたい」という夢をもっていたそうです。日の当たらなかったケの道具から、美を追求したハレの日のための逸品へとシフトチェンジしたことで、結果的に中川木工芸が生き残ることができたと思っています。 京都の中川木工芸は現在、2代目であり重要無形文化財保持者(人間国宝)の父、中川清司が主宰しています。
何百年も前から伝統工芸に根付く環境に配慮した持続可能性の概念
工房の壁には300種類もの鉋が並ぶ。
木桶の魅力はどんなところにあるのでしょうか。
木桶がもつ価値観はいろいろありますが、そのひとつが持続可能性の概念が内在していることです。木桶は小さい木片を組み合わせ、箍(たが)で結びつけたいわば集成材の工芸だから、簡単にバラバラにすることができます。ひび割れなど傷みの激しい箇所の板のみを交換して修理しながら長く使うことができる。たとえば直径1メールの太鼓を作るためには、通常1メートル以上の大木が必要になります。でも木桶の技術を使えば、幅10センチの木を組み合わせて作ることができますし、持ち運びも簡単です。持続可能性、持続可能性といわれていますが、木桶職人にしてみたらごく当たり前のことで、何百年も前から物を大切に使う、素材を無駄なく使うなど環境に配慮した考え方が伝統工芸の世界には根付いているんです。
中川氏が蒐集した中国やベトナムなどの木桶のコレクション。木桶を解体してどのように作られているかを研究しているのだという。
大学では現代美術を学ばれ、卒業後に家業に入られたそうですね。
思春期なのか、家業ではない世界を見たかったんでしょうね。大学では現代美術を選び、あえて木の素材ではなく、鉄を使った現代彫刻を作っていました。でも大学で制作活動をして改めてわかったのは、僕はもの作りが大好きだったんだということ。実家がもの作りでむしろラッキーだったなと考え、就職はせずに卒業と同時に、父のもとで働くようになりました。
とはいえ大学で学んだことも生かしたいと考えていましたので、「週休2日制にしてほしい」と父と交渉しました。「あほか、職人に週休2日なんてありえない」って言われましたけどね(笑)。月曜から金曜の朝8時から夜23時まで木桶を作り、休みの日に鉄の彫刻の制作を行うという生活を、卒業後10年以上続けていました。二足の草鞋でしたが、僕にとっては苦痛ではなくむしろ楽しかったんですよ。それは今でも変わっていません。工房は週休2日制なので、休日は誰も工房にいないから、僕は週末も工房で自由に制作に没頭しています。そうすることが幸せなんですね。
2003年に独立され滋賀県大津にご自身の工房を構えられましたが、何かきっかけがあったのでしょうか。
2001年に、父が人間国宝に認定されたのが大きかったと思います。人間国宝は人に与えられるもので、工房に与えられるものではないのですが、中川木工芸には僕が作った商品もあります。お客さんからしてみたら、人間国宝が作っていると考えて中川木工芸の商品を買ったのに、実は僕が作っていたということもありうるわけです。それはよくない、という話になり、工房を2カ所に分けました。この地を選んだのは、学生時代にワンダーフォーゲル部だったため、比良山にはよく登っていたからです。
父は桶指物の技術をベースにした柾(まき)合わせの技法を用いて、美術工芸品を制作した仕事が評価されて人間国宝になったわけですが、僕は木桶そのものにまだまだポテンシャルがある、木桶の可能性をもう一度探究してみたいと考えたことも、独立を決めたひとつの要因ではあります。
世界に発信することで見つけた新しい木桶のカタチ
シャンパンクーラー「konoha」。フォルムの美しさもさることながら、氷が溶けにくく結露が生じにくいという特徴が評価されている。(中川木工芸提供)
2010年に発表され、世界で注目を集めたシャンパンクーラー「konoha」はまさに木桶の新しい可能性かと思いますが、「konoha」は完成までに2年の歳月を要されたそうですね。
京都の伝統産業を海外に発信する企画会社リンクアップの今井雅敏氏から「今までにない桶を作らないか」と話があったんです。2カ月に一度、試作品を作って見せていたのですが、なかなか彼が満足するものができず、おひつの形から小判型、楕円型と変遷していきました。持ち手を4つ付けるなど、迷走していた時期もありましたね。
「もっとシャープなデザインを」との要望があり、どんどん尖った形にしていきましたが、桶のもつ構造的限界を克服するのが大変でした。というのは、桶は全体に力が分散する丸い型が一番形態的に安定しているんです。鋭角な型にすると、力のかかり方が変わってしまい、箍とよばれる金属の輪で締めると、カーブの部分に箍が食い込んで木が傷だらけになってしまう。試行錯誤して2年が経った頃、「これ以上、カーブを急にすると桶として成り立たなくなる」と半ば諦めかけたときに、「箍で締める部分は丸型にして、そこから上の部分だけ尖らせればいいのでは?」とふとひらめいたんです。
最終的に真横から見ると花が開いたような流線的なフォルムとシャープな口縁をもつシャンパンクーラー「konoha」が完成しました。「花が開くような形は、シャンパンの香りがふっと広がるイメージを体現している。また材料の高野槇の香りとシャンパンの香りは非常に相性がいい」と、当時のドンペリニヨンの醸造最高責任者リシャール・ジョフロワ氏に絶賛され、シャンパンクーラーをコラボレーションで制作。発想の転換によって、技術とデザインと機能の3つが集約した木桶が誕生したことで、まだまだ木桶のポテンシャルは計り知れないと木桶作りの転機となった作品でした。
挑戦し続けるのは、100年後にも木桶を存在させるため
琵琶湖畔にある中川木工芸比良工房には日本全国から若いスタッフが集まっている。木桶の技術を次の世代へ引き継ぐことで、中川氏は新しい挑戦ができているという。
未来に向けて伝統工芸はどのように継承していくべきだと思われますか。
僕は、伝統工芸を必ずしも今の形のまま継承する必要はないと思っています。木桶だったら木桶の中で何を残すべきで、何を残さなくてもいいのかを明確にし、その方向性さえ間違っていなければ、どういった形になったとしても、100年後に木桶は残るのではないかと考えます。冒頭で京都市内の桶屋が200軒から3軒に激減したという話をしましたが、僕の工房で修業した若い職人が独立して自分の工房を開いたことで、京都の桶屋は現在5軒になりました。工房には現在5人の若手スタッフがいて、彼らは少なくとも僕よりも30歳くらい若い。彼らがこのまま続けてくれたらあと30年以上は桶屋が残るでしょう。墜落するだけだった木桶業界が、かろうじて軟着陸できるようになっています。
今後、挑戦されたいことはありますか。
これまでもデザインオフィスnendoの佐藤オオキ氏と酒器を作ったり、現代美術家の杉本博司氏と照明彫刻を作ったり、国内外のデザイナーやアーテイスト、企業とコラボレーションしてきましたが、今一番やりたいことは建築と木桶を掛け合わせて拡張していくことです。ドンペリニヨンとのコラボが「デザイン×桶」、杉本博司氏とのコラボが「アート×桶」だったように、木桶に何かを添加することで木桶は進化していきます。
今はそのひとつの形として「建築×桶」を掲げた制作に取り組んでいます。箍を外すとバラバラになり、組み立て直すことができるという木桶の特性を生かした「木桶の茶室」を作りました。
木桶の技法で制作した茶室。(中川木工芸提供)
また、隈研吾氏の息子である隈太一氏と一緒に、木桶工法によるサウナも作りました。
工房のスタッフが成長し、ふだんの業務は彼らに任せられるようになってきた分、僕の役割は、100年後も木桶が存在する未来のために、木桶を拡張していくチャレンジを続けることなのだと考えています。
最後に、仲間でもある経営者の方々にメッセージをお願いします。
(マーケティングの方法として)届け方のスタイルはそれぞれ違っていて、一つひとつ見極める必要があると思っています。マス向けの商品では、たくさんの人の目に触れることがひとつのモデルですよね。でもうちの木桶は特殊なので、そういう方法じゃないなと。たとえばシャンパンクーラーだったら、たくさんの人ではなく、年間100人に情報が届けばいいということになります。インターネットがなかった時代は、それこそ数を打って当てるというやり方をしていましたが、今は限られた人に情報を届かせることが可能な時代です。日本だけでなく、世界中に。以前にはなかった新しい仕事の仕方ですよね。確実に欲しいという方に情報を届けて、その方に買っていただくというやり方が面白いと僕は思っています。
■プロフィール
中川周士(なかがわ しゅうじ)
中川木工芸比良工房 主宰
1968年京都生まれ。木桶作りを家業とする家の3代目として生まれ、幼い頃より工房で木工に親しむ。京都精華大学芸術学部を卒業後、中川木工芸にて父の中川清司氏(重要無形文化財保持者)に師事。2003年、滋賀県大津市に自身の工房、中川木工芸比良工房を開く。2010年、ドンペリニヨンとのコラボレーションでシャンパンクーラーを制作して話題に。2017年には第1回ロエベクラフトプライズにて4000人近い応募者の中から26人のファイナリストとなる。京都の伝統工芸を担う若手後継者ユニット「GO ON(ゴオン)」のメンバーとしても活動中。2024年9月には米ミネソタ州で木工教室を開催するなど海外での人気も高い。
中川木工芸比良工房(外部サイトへ移動します)
■スタッフクレジット
取材・文:脇本暁子 撮影:蛭子 真 編集:Pen編集部