800年前から変わらずに続く備前焼は、
たどらなかった道を選んだらどうなったのか
まずは、備前焼の特徴や魅力を教えてください。
山本領作氏(以下、領作) 備前焼は日本の六古窯(越前、瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前)のなかでは最も古いとされています。古墳時代からあった須恵器を源流とすると1000年くらい続いているといえます。須恵器が作られていた場所は少し離れているのですが、それがだんだんと移動して備前にたどり着いたのが800年前。備前焼はその頃から姿かたちをほとんど変えることなく続いています。苦しい時代にも火を絶やすことは一度もありませんでした。釉薬をかけず、絵付けもせず、薪窯で焼くという点を、良くも悪くもずっと変わらずに続けてきたのも特徴です。
山本周作氏(以下、周作) もともとは生活雑器で、すり鉢や水かめなどの日用品が爆発的に全国に広まっていきました。強度があって水が腐りにくいという機能が、当時の生活と合っていたのでしょう。備前焼は水との相性がいいんです。ガラスの花瓶に比べたら、花の持ちがいいということもあって、花器として多く利用されています。
領作 豊臣秀吉による朝鮮出兵があって、朝鮮から数多くの陶工が連れてこられて全国で釉薬のブームが起きたのですが、備前はそのときに、釉薬を使わないという選択をしています。釉薬を使わずに焼き方を工夫することで特徴を出していったのです。でも、僕らはむしろそうではない考え方なんです。釉薬を使わないという選択肢、ではないほうの道をたどったらどうなるか、ということに興味があるんですよね。
そもそも須恵器が備前に移動してきたのは、土を求めてきたんです。備前焼も時代ごとに使っている土が違うんですよ。今の備前焼は、田んぼの下のほうにある粘土層(田土、ひよせ)を使っていますが、それまでは山土を使っていました。地元で取れる土を使って何かを表現するのが焼き物である、というのが僕らの考えです。
周作 もっとシンプルに考えたいというか。釉薬を使ってもいいし、作品によっては使わなくてもいいという、ごく自然な考え方です。釉薬を使わないと決めてしまうのではなく、表現方法はいろいろあっていいのではないでしょうか。
IZURUの工房はJR赤穂線の伊部駅より1kmほどのところにある。周囲を山で囲まれた自然豊かな環境だ。
お父様は岡山県の重要無形文化財保持者ですが、お二人は違う道を歩もうとされていたそうですね。何か備前焼に携わるようになったきっかけがあるのでしょうか。
周作 備前焼はあまりに身近な存在だったため、継ぐつもりはまったくなかったんですよね。関東の大学に行って、焼き物とは関係のない経済学を勉強していました。父がフランスで大きな個展をすることになり、その仕事を手伝うために岡山に帰ってきたのがきっかけです。
領作 僕は東京の美大に通っていましたが、油絵をやっていたんです。自分たちの親戚は全員が焼き物をやっていたので、当然継ぐものだと思われていたみたいですが、焼き物を生業にすることは本当に考えていなくて。単純に絵を描くことが好きだったため、油絵を選びました。それこそ大学の先を考えていなかったというのが正直なところです。
備前焼に携わるようになったきっかけは、兄と同じく父のフランスでの個展を手伝ったことです。1カ月ほどの長丁場だったんですよ。現地の土を使って焼き物を制作して現地の窯で焼いた作品と、日本で作った作品とを合わせて展示するかなり大がかりなもので。その要員として父を手伝ったことが大きな転機となりました。
周作 父のフランスでの個展は、フランスのブルゴーニュにある古城(ラティー城)で行われたのですが、その城に人間国宝の祖父の焼き物が置いてあったというご縁があったようです。父も焼き物を継ぐ気はなくて、そもそもは彫刻家になりたかったんです。日本の大学で彫刻を専攻した後、パリのエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)に留学しました。有名な彫刻の先生に弟子入りが決まっていたのですが、その方が亡くなられたのがきっかけで、たまたま帰国したんです。
岡山県備前市伊部にある工房IZURUにて。右が兄の山本周作氏、左が弟の領作氏。
違う道を歩まれようとしていたのは、継ぐことに対して抵抗したいといったような気持ちもあったのでしょうか。
周作 それはだいぶありましたね。お客さんからもやっぱり将来は継ぐんでしょう、と言われるのがすごく嫌でした。その反発もあって、関係のない学問を選んだというところはあります。小さいころはまだ焼き物に触れることもありましたが、中学生になる頃には関わることもなくなりますしね。父から強制されることもありませんでした。
領作 他の焼き物の家系とはだいぶ違うという感覚はありました。祖父が人間国宝ではありましたが、父は四男だったのでそこまでプレッシャーはなく、好きな彫刻をやっていましたから。だから僕も、備前焼はそこにあるものという捉え方で、それについて何かを考えるということはありませんでした。岡山に帰ってきてから初めて備前焼に触れた、という感じです。
備前焼の可能性を探るための「IZURU(出製陶)」
お二人が2014年に立ち上げた工房IZURU(出製陶)について教えてください。
領作 備前は作家さんが多く、量産をしている窯元はごくわずかです。岡山の人にとっても、備前焼が生活とはかけ離れた存在になっているのは悲しい。備前焼をずっと残したい、もっと日常的に使って欲しいと考えたのです。究極的には僕らが作らなくてもいいんですよ。作家として作るのではなく、チームとして作っていく方向を目指して立ち上げたのがIZURUです。
他の産地はもっと柔軟に、変わっていっている気がするんですよ。備前はずっと変わっていません。悪く言うと変わらなすぎる。そこが産地としての弱さになってしまっているのではないかと感じています。もし変わっていたとしたらどう変わっていたのか、そこにはどんな可能性があったのかを探っています。
IZURUでは誰もが作陶できるように石膏型と機械ろくろを導入。個人の技量に頼らない生産体制を築く。
領作 昔から疑問に思っていたんです。なぜどれも同じなのかなって。備前にはすごい作家さんがいらっしゃるんですよ。でも皆さん、自分たちで決めた定義の中で試行錯誤されている。釉薬を使ってもいいと考える人がここまで出てこなかったのが不思議という感覚です。備前を知らないお客さんからすると、なぜ釉薬を使わないの? と思うと思うんです。
実は、父はもう30年、40年くらい前から、備前の土に顔料を混ぜて色を付けていたんですよね。その色土を、例えば大鉢の装飾に使っていました。僕らはそれを普段使いにできるような食器に落とし込もうと考えました。備前焼の本質である、なくてはならないものを究極に削ぎ落としたら、焼き方ではなくて、土じゃないかと思ったわけです。備前焼に備前の土を使うのは大前提として、無釉薬だったり、灰をかけて模様を付けたりするのではなく、土の表現として他にできることは何か、新しい捉え方をする方向もあっていいんじゃないか、と。
土に顔料を混ぜて色を付けて作った製品。どうすれば発色がよくなるか、試行錯誤したという。
領作 それに、土は無限にあるわけではありませんから、その点も変わってく必要があります。あとは働き手ですよね。焼き物の業界に携わりたいという人は本当に少ない状況です。僕らは量産のために機械ろくろを使っています。石膏型に土を入れてレバーを下ろすと誰でもひける。こうなってくると職人さんでなくても、ちょっと慣れてもらえれば誰でもすぐに作れます。
また、薪窯で使用する薪も自然のものなので、薪が足りなくなるという問題があります。作り方も焼き方も、従来通りの方法では残っていけません。僕らも工房を立ち上げるにあたって、歴史をひもといて備前焼とは何かを考えました。考えなければ、そこで思考が停止してしまうと考えています。
だからIZURUでは新しい土の開発を行われているんですね。
領作 備前にある鉱山から採掘した耐火性の高い三石蝋石を、田土に混ぜています。そもそも原料として使えるのか、どういう工程でどういう割合でその土が使われているかというのは、その鉱山の方も知らなかったので、まず手で土をこねて作ってみるところから始めました。備前の土にも鉄分が多い土と鉄分が少ない土があるため、色土を作るときもいろいろな土を混ぜていました。単純に混ぜればいいということではなく、もう本当にトライアンドエラーの繰り返しです。そもそも前例がないため、自分たちで解決するしかなく、ひたすら格闘しましたね。
IZURU発の新ブランド「NUE(ヌー)」は、備前の鉱山で採れた蝋石をブレンドした新しい土を使っている。下段手前の丸皿は釉薬のついている面と無釉薬の面があるリバーシブルで、使い手が自由に用途を決められる。
その苦労があってNEUが生まれたわけですね。
領作 NEUが生まれたのはこの鉱山との出会いが大きいですね。NEUの焼き物には2色あるのですが、釉薬の色を変えているわけではなくて、焼き方で色を変えています。これが備前焼の考え方です。配合は多少違っても土は同じ。こういうふうに焼いたら色が濃くなるとか、明るくなるとかを、焼き方ごとに研究して、瀬戸内の変わりゆく空を表現しました。備前焼の原点回帰ではないですけれど、顔料は入れていません。顔料で色を付けるのではなく、もっとナチュラルにしたくて。
周作 江戸時代には、「白備前」と呼ばれる白い器を作っていた時期がありました。釉薬を使ったり、鉱山付近の白い土を使ったりしていたという文献もあります。NEUはその流れからインスパイアされて作りました。今は釉薬を使っていますが、使わない選択肢もあっていいと思っています。ただ、無釉薬ですとナイフとフォークを使うと傷がついてしまうので、食器として使ってもらうには、釉薬があったほうが使い勝手はいいのですが。
領作 たとえばNEUにはリバーシブルの器があるんですよ。無釉薬の面と、釉薬をかけている面。釉薬をかけたほうは汁気のあるものを入れたり、無釉薬の面には食べ物を乗せたり、といろいろな使い方ができます。
備前焼を残すために、常に考え試行を続ける
お父様のフランスでの個展を手伝われていたとのことですが、お父様の影響を受けられているのではないでしょうか。
領作 技術的なことというよりは、考え方を教わったのが大きいですね。
周作 彫刻をやりたくてフランスに留学していた父は、備前焼の定義に縛られていない人です。発想が柔軟なんですよ。フランスから帰国後も、例えばガラスの粉を使うなど、自分がやりたいことを試していました。だから僕らも備前焼のあり方に縛られず、俯瞰で考えることができましたね。
お二人にとってターニングポイントとなった出来事はありますか。
領作 やはりIZURUを立ち上げたことですね。二人で相談して、作家としてではなく、ブランドとして器を作ろうと立ち上げたのがIZURUです。最初は僕たちも作家の道をたどろうとしていたんです。でもデパートで展示会をし始めたときに、ちょっと違うなと。備前焼を残していくことを考えると、作家の作品として残るよりもブランドとして残るほうが意味はあるという考えにいたりました。
最後に、今後の展望と、仲間である経営者の方々へのメッセージをお願いします。
領作 ちょっと普通の焼き物とは離れているのですが、備前焼を知ってもらうために、ガチャガチャという新しい切り口を考えています。以前から木型を使って色土で箸置きを作ったりしていたのですが、それをガチャにしてみたら面白いんじゃないかと。
和菓子を作るための木型があるのですが、それが素晴らしい技術なので、何か残せるものはないかと考えたときに浮かんだのがガチャガチャでした。和菓子の木型の職人さんは日本でもう4、5人しかいらっしゃらないのですが、そのうちの一人が岡山にいらっしゃって。京屋さんというのですが、コラボして岡山らしいオリジナルのモチーフを作り、岡山城などで販売する予定です。
周作 やはり時代のニーズには敏感でいたいと考えています。これを備前焼でやるということに反対する人もいるかもしれませんが、これをきっかけに知ってもらえれば選択肢が広がります。間口を広げることも大事だと考えています。
岡山らしいモチーフをかたどった備前焼のガチャガチャを計画中だ。オリジナルの木型は岡山で菓子木型彫刻を手がける京屋に発注したという。
京屋さんとはもともとお知り合いだったのですか。
領作 いえいえ。インスタグラムのダイレクトメッセージでコンタクトしました。一緒に何かやらせてもらえませんかって。京屋さんもそうですが、他にはガラス職人さんとか、飲食店の方とか、気になる方には結構自分から声をかけています。やはり自分たちとは違うクリエイティブの分野の方と話をするのは刺激になるんですよね。
周作 えらそうなことは言えないのですが、業界にいると当たり前や常識に縛られてしまうと思います。僕らは焼き物の団体には所属していないんですよ。業界同士で交流することはあまりありません。もっと俯瞰で見たときにヒントが見えてくると感じます。
領作 他のジャンルの方たちと交流し、同世代にどう響くかを知ることも大事だと思います。今のユーザー層は年齢がかなり上なんですよね。備前焼が続いているのはそういう方たちのおかげでもありますが、その方たちがいなくなってしまったらやっていけるのか。思考停止せずに、常に対象と向き合ってどうあるべきかを考えていく、それが大事だと思っています。
■プロフィール
山本周作(やまもと しゅうさく)、山本領作(やまもと りょうさく)
現代の生活にあった器をコンセプトに掲げる備前焼の工房「IZURU」を兄弟で主宰する。祖父の山本陶秀は備前焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)、父の山本出は岡山県の重要無形文化財保持者という、代々焼き物を生業とする家庭で育つ。父から備前焼の技法を受け継ぎながら、今の暮らしにふさわしい備前焼のあり方を模索している。2021年、オリジナルの新ブランド「NEU(ヌー)」をスタート。
出製陶 (外部サイトに移動します)
■スタッフクレジット
取材・文:小泉淳子 撮影:小原一真 編集:Pen編集部