起業の目的は、「雇用」の創出と新規参入の壁を壊すこと
ニュータイプの醸造家がこの道を選んだ理由とは?
—「稲とアガベ」は「クラフトサケ」という新しいジャンルの酒を造っていますが、醸造所を立ち上げたきっかけを教えてください。
「日本酒の蔵で修業したクラフトサケの醸造家です」という僕の自己紹介を聞くと、皆さん、僕のことをさぞかし日本酒が好きに違いないと思われるようなのですが、起業の原点はそこではありません。僕は10代の頃からどこか社会になじめなかったのですが、それならば自分で起業するのがいいだろうと考え、大学では経営学部に入りアントレプレナーシップを学びました。今でこそ、社会課題の解決を目指した事業は珍しくないのですが、当時は、起業というとITベンチャーで一発あてて…といった風潮がありまして、有名人やお金持ちになりたいわけではなかった僕は、なかなか起業のモチベーションを見出せませんでした。
でも、アントレプレナーシップの教科書に、「企業活動はそれ自体が社会に貢献する」と書かれていたのを読みまして、自分が起業するモチベーションは、雇用を生むことだ、とピンときました。世の中の雇用の8割は中小企業が生んでいて、さらに中小企業の10年生存率は10パーセント未満だと。つまり、起業家という人種が活動し続けなければ、世界の雇用は満たされない。僕が雇用をつくればいいんだと。僕、人のためだとがんばれるんです。
—雇用を生むことありきの起業だったのですね。そこからどのように日本酒につながったのでしょう?
初めにお話したように悩みの多い青春時代を送ってきたのですが、なぜこんなに悩みが多いのかと考えたら、将来の選択肢が多いから悩むのだと気付いたんです。それならば、起業の選択肢を絞ろう!と思った矢先に目に入ったのが、たまたま家の中に転がっていた日本酒でした(笑)。
日本酒を飲むのは好きでしたが、「日本酒が好きだからこれにする」と好き嫌いで決めたら、「好き」という前提はいつか崩れるかもしれません。嫌いになってしまったら「あんなに好きだったのに」とまた悩むことになる。だから、この選択にあえて理由を付けず、日本酒で生きていくことに決めたんです。日本酒に関わる仕事の中でも「造る」ことがわかっていたら、販売するにも飲食をするとなっても活かせると思い、そこからまずは月10万円くらいかけていろいろな日本酒を飲みました。その中で衝撃を受けたのが、神戸の「ぼでが」という日本酒バーで出会った「新政」というお酒でした。店主の木村さんに「僕、この会社面白そうだと思ったんで、明日電話して就職できないか聞いてみます」と話したら、木村さんがお店のフェイスブックページに「新政にいきたい男の子が来た」みたいな感じの投稿をしてくれたんです。それをたまたま(新政酒造)社長の佐藤祐輔さんがすぐ見て、「いいですよ」という感じのコメントをしてくれて。そこからDMでやりとりをして、もうその日のうちに「新政」に入ることが決まったんです。2週間くらい研修を受けさせてもらって、その年(2014年)の春に正式に入社しました。
—「新政酒造」といえば、大人気の銘醸蔵ですよね。
正直こんなに人気の蔵だとは当時知りませんでした。いわゆる日本酒ブームがザワザワ起きつつあるというくらいのときでしたので。秋田の地元ではむしろ「東京でウケてるらしいな」くらいの受け取られ方だったと思います。佐藤祐輔さんという天才と、古関弘さんという杜氏の師匠、二人の薫陶を受けていろんなことを「新政」で学んで。4年半勤めました。
—そしてかねてより考えていた起業ということに向かうわけですね。
実際に日本酒を造ってみたら楽しくて。それならば、日本酒造りで起業しようと思ったんです。でも、実は日本酒って、酒税法により、新規参入が認められていないんですよ。法律に詳しい人に聞いても、「がんばればできるとかそういう問題じゃない」と言われて。「ああ、そうなんだ、じゃあ、法律を変えるしかないな」と思ったんです。経営学を学んだ者からすると、新規参入が業界の新陳代謝を促して、その中でイノベーションが起きて、業界全体が活性化していくということは経済原則として当たり前なんですよね。そこを閉ざしたら廃れていくというのは間違いないんですよ。
—日本酒の消費量は昭和48年をピークにずっと右肩下がりが続いていますよね。
単純なことではないのは理解していますが、業界が業界の首を絞めていると思います。酒蔵の数がどんどん減っていく一方で、基本的には新規参入がゼロだったら、減り続けるのは当たり前。今はよくても、じゃあ100年後や200年後、最後のひと蔵になるまで法律を変えず業界の構造もこのままにするんですか?という疑問を業界としてももちろん、社会としても持つべきではないかと。法律を変えて日本酒造りの新規参入を可能にするのは、僕の人生の目標のひとつです。
ただ、法律を変えるまで酒が造れないとなると、僕はもしかしたら一生酒を造れないかもしれないじゃないですか。だから「その他の醸造酒免許」という日本酒とは別の免許を活用して酒造りを始めることにしました。その免許で造った酒が「クラフトサケ」です。
課題が共有できている地域だからこそ、
本気さが伝わった
—醸造所を設立した秋田は修業時代にご縁があった場所かと思いますが、なかでも男鹿を選んだのはなぜでしょう?
理由はいろいろありますが、秋田のなかでも男鹿は少子高齢化が急速に進んでいて課題が明確だったことですね。だから、男鹿市長も市役所の人たちもみんな問題意識を共有しているんですよ。それに、飲み友達と話していても「男鹿はいいところなんだけどなぁ」「ここを知ってもらえたら秋田全体の底上げになるよなぁ」と口々に言っていたんです。僕も秋田に住んで7年くらいだったので、同じような感覚を抱いていました。そうした考えをとある人に伝えると、その人が男鹿のスーパー公務員と呼ばれるほど情熱溢れる方を紹介してくれて、水源地や物件を探してくれた。男鹿市長も協力すると言ってくださると。
—ある意味、それは地方ならではですよね。
そうです。さらに、融資を手助けしてくれた地銀や公庫の方など、人との出会いにとても恵まれました。手元にあったのは貯金の200万円でしたが、創業2ヶ月で2億円の融資を受けました。この話はnote (外部サイトに移動します)にも詳しく書いています。
—かなり異例なケースになるかと思いますが、何が男鹿の方たちに刺さったと分析していますか?
当時よく口にしていたのは、「起業家としてこの地に雇用を生むことで秋田を良くしたい」という想いです。これだけ儲かるのでこれだけ返せますというような話は僕は一切しません。伝えていたのは、想いの部分なんですよね。僕は本気でそう思っているので、その本気が伝わったんだと思います。
なんとかしたいという気持ちは共通している。そこに醸造所を建てたいという変なやつが現れた。こいつにベットすれば何か起きるんじゃないか、みたいな。自分が「常にその期待感を持ってもらえる存在になれているかどうか」というのは、当時とても意識していたと思います。想いを伝えようとしている自分が、ちゃんとかっこいいかどうかを客観的に見ている自分がもう一人いる感じで。ある意味、“作り上げた自分”をいかに本物にしていけるかといったイメージというか。僕自身が何者でもなかったので、目の前の人がどうしたら協力してくれるかを当時は真剣に考えていましたね。
■プロフィール
岡住修兵
稲とアガベ株式会社代表。1988年、福岡県生まれ。神戸大学経営学部卒。2014年、秋田県・秋田市「新政酒造」で酒造りを学ぶ。2018年、退社。起業準備。その間、東京都・浅草「木花之醸造所」で初代醸造長を務める。2021年、秋田県男鹿市で「稲とアガベ醸造所」を設立。「米を磨かず技術を磨く」をモットーに、秋田の自然栽培米を使用し、新ジャンルの酒「クラフトサケ」を造る。2022年、日本各地のクラフトサケ造りに励む仲間たちと、業界団体「クラフトサケブリュワリー協会」を立ち上げ、初代会長を務める。2023年、廃棄される食材を宝物に変えるというコンセプトの食品加工所「SANABURI FACTORY」を立ち上げ、酒粕を利用した「発酵マヨ」などをリリース。同年夏には、「一風堂」監修のレシピによるラーメン店「おがや」をオープン。いずれも醸造所近辺にあり、街に賑わいを生んでいる。
稲とアガベ (外部サイトに移動します)
■スタッフクレジット
写真:猪原悠 取材・文:浅井直子 編集:舘﨑芳貴(RiCE.press)