出向して受けた「洗礼」
――どのようにして地方企業の支援に携われることになったのか、経緯を教えてください。
1983年に大学を卒業し、静岡銀行に入行しました。在籍したのは、26年間。これからお話する「SOHOしずおか」に出向する前は、M&Aのアドバイザリー業務に7年半、従事していました。自分は定年まで銀行や銀行の関連会社に勤めるのだろうと漠然と考えていましたから、まさか20年も地方企業、中小企業、小規模事業者の支援をするとは思ってもいませんでしたね。
2001年2月1日が創業支援や既存産業の支援をおこなうSOHOしずおかのプロジェクトのスタートだったんですが、私が出向の命を受けたのは同じ年の1月25日。プロジェクトのスタートまで1週間もありませんでした(笑)。最初は、人事から呼ばれて「悪いことをしたわけでもないのに、何だろう……?」と訝しんだのですが、行ってみると「今度、静岡県が産業支援を行う施設をつくるんだ。ここに出向してくれないか」と。
現在は多くの講演をこなす小出宗昭氏
――すぐに快諾されたんですか?
いえ、むしろ食ってかかりましたね。スタートまで1週間を切っているし、出向は普通、打診があって意思の確認がある。あまりに唐突な話で、誰が私に行けと言っているのか人事の副部長に聞きました。すると「会長だよ」と明かされたんです。会長からの特命と受け止めて、腹が決まりました。
後にわかったのは、こうした施設の立ち上げに静岡銀行の現役行員を送り込むのは静岡銀行としても初めてのチャレンジで成功させたかった。そのためには、銀行のなかでも変わり者、良い言い方をすればユニークな人間が必要だということで会長は私を指名したようです。
――銀行で担当されてきた業務内容と企業支援には大きなギャップがあったのではないでしょうか?
出向して、いの一番に、ある洗礼を受けました。それを受けたことで、自分はいままである意味で勘違いしていたんだな、と気づかされましたね。
静岡銀行といえば、静岡県内であれば誰もが知る地元の有名企業です。私が新入社員のときだって、企業のお客さまに挨拶に行けば名刺とバッジを見て「あ、しずぎん『さん』ですか」と、さんづけで丁重な扱いをしてくださいました。そういう扱いをされる事が当たり前になっていました。しかし、出向し起業家を応援するために協力してほしい行政や各種団体へ挨拶に行っても、誰も話を聞いてくれない。名刺を変えてバッジを外し「静岡銀行員」でなくなった瞬間、見向きもされないんです。
まったく相手にされないことにとても驚きました。「小さいもの(企業)をバカにするな」と思いましたね。一方で、私が応援すべき地方企業、中小企業、小規模事業者、起業家の方も営業する場面においてきっと同じ目に遭っていると考えました。よく「人間、中身が大切だ」なんて言われますが、それは嘘だと思いましたよ。どんな会社に勤めているか、どんな肩書か、どんな学校を出ているかで判断されている場合がほとんどだと実感したんです。それは違うだろう、価値観を変えないとならないという思いを持つに至りました。
――その思いが地方企業や中小企業を支える原動力になっていると?
そうです。しかし、「人間は中身だ」「小さな会社でも素晴らしいことをできる」といくら言葉にしたって、それでは世の中は変わりません。言葉だけでは、所詮、綺麗事を言っているに過ぎませんよね。だから、とにかく結果を出すことにこだわりました。こんな小さな町工場でもすごいものをつくっている、こんな小さな商店でも素晴らしいモノを売っている、と結果を出して周りに示すことにしたんです。
振り返ってみれば、このときに私の職業観、人生観、社会観が180度変わりました。銀行員のときも結果を出すように仕事はしていましたけれども、それでも出向したあとほどハードには働いていなかったと思います。
小さな会社、地方の会社が結果を出すためにと考えるようになってからは、土日も返上して働くようになりましたね。だから、静岡銀行には出向させてもらって、いまでも本当に感謝しているんです。本気で社会に向き合う、真剣に企業の皆さんと向き合う機会をつくっていただいた。また、私を真人間にするきっかけをつくっていただいたと感じています。
富士市からセンター長ポストのオファー、銀行には止められると思っていたら……?
――どのくらい出向されていたのでしょうか?
2008年6月末までなので、7年半、出向していたことになりますね。ただ、私はSOHOしずおかだけに出向していたわけではないんです。2004年からは静岡市が静岡市産学交流センターという施設をつくるようになり、こちらとSOHOしずおかの両方を見ていました。さらに、2007年には銀行のほうから「静岡銀行の戦略として浜松地域を強化したい。今度、浜松市が『産業創造センター』を新設するので、そちらに移ってほしい」と打診され、浜松へ行っています。普通は、出向させている人間をさらに出向させるなんて、あり得ないんですけどね(笑)。
浜松にいたころは、かなり楽しく仕事をさせてもらって、たしかにさまざまな成果にも結びつきました。
その浜松で仕事をしはじめてから、1年も経たないときでした。私の生まれ故郷である富士市から、「富士市でも支援センターをつくるから、ぜひ小出さんにセンター長をやっていただきたい」と要請されたんです。私は、「まだ浜松に出向したばかりなので、さらに出向はできませんよ」とお話したら、先方は「そうじゃないんです。小出さんに静岡銀行を辞めていただいて、会社を設立し、その会社がセンターの運営を受託してほしい」と。驚きましたね。
ただ、私は当時もいまも静岡銀行を非常に愛していますし、静岡銀行員であることに誇りを感じていました。だから、要請は何度もあったのですが、断っていたんです。だけど、富士市の方々も諦めなくて、最後には当時の市長さんが要請しているという話まで出てきて……さすがにそこまでの話となると、私個人の判断で断るわけにもいかなくなってしまいました。
――というと?
いまでもよく覚えているんですが、2008年1月31日の朝、頭取のところへ話に行きました。お話する前は、きっと「だめだ」「ウチの行員を横から盗るような真似をして、ふざけるな」くらい言われるのかなあ、と思っていたのですが、頭取から出た言葉は「小出、やってみたらどうだ」でした。さらに続けて「銀行としても応援する」とまで言われ、私は「えー! 止めないの!?」って、ただただびっくりしていましたね(笑)。
その後、SOHOしずおかへの出向で私を指名してくださった会長、2008年当時の最高顧問のところへ出向いたところ「小出君、これは静岡銀行にとっては名誉なことだよ。ウチの行員がひとつの街の産業支援を担うということでしょ。ぜひやってみなさい」というお言葉を頂戴しました。銀行も自分に期待してくれるとわかりとても嬉しかったですし、応援してくれるとまで言うならやってみるか、ということで2008年に静岡銀行を退職することになりました。
Bizモデルは2021年11月18日現在、全国25か所に広がっている
経営者たちの輝く瞳に心をときめかせる
冒頭でも申し上げましたが、私はずっとサラリーマンとして勤めるつもりでしたし、起業するなんて考えてもいませんでした。また、これも繰り返しになりますが、静岡銀行員であったことを誇りに思っています。では、銀行を辞めてしまって悔いはあるかというと、そうではありません。銀行にいた最後のころはM&Aのコンサルティングをしていましたが、そういう仕事をしているといくら地方銀行とはいえども本当の意味で小さな企業の経営者、起業家の方とお目にかかることはないんですね。出向して、あるいは、退職後に起業してそのような方々とお会いすると毎回、「この人たちにあふれている挑戦心はどこから来ているんだろう」「なぜ、こんなに目が輝いているのだろう」と驚かされます。
お会いする経営者の方々は皆自身の人生をかけ会社をより良くしようとチャレンジしています。毎日毎日経営者の皆さんから強い刺激を受けるとともにパワーをもらっていますし支援に携わる喜びも感じます。銀行を辞め自分自身1人の起業家となったからこそ得られたものもあると感じていますね。
■プロフィール
小出宗昭
1959年、静岡県富士市生まれ。中小企業支援家。法政大学経営学部卒業後、静岡銀行入行。在籍中に、SOHOしずおか、はままつ産業創造センターなどに出向し、地方企業、中小企業、小規模事業者、起業家の支援をスタートする。2008年に静岡銀行を退職し、自ら立ち上げた会社が富士市産業支援センターf-Bizの運営を受託。2020年までセンター長を務める。
■スタッフクレジット
取材・文・編集:藤麻迪(株式会社CINRA)
■関連記事
小出宗昭氏に関する記事はこちら
地方企業支援のスペシャリストが教える、「セールスポイント」を見つけ出す方法