トップアスリートの腸から生まれたビジネス
2015年にプロサッカー選手を引退し、セカンドキャリアとしてビジネスの世界に飛び込み、起業されました。まずは引退直前に設立したAuB株式会社の事業内容と、ビジネスを始めるまでの経緯を教えてください。
現役時代、体のコンディショニングには常に気をつかっていました。特に、幼少の頃から母が「人間は腸が一番大事」と話していた影響もあり、何か科学的な根拠を調べたわけでもないのですが、腸の健康には注意を払っていたのです。具体的には、食後は必ず温かいお茶を飲む、梅干しを食べるなど食生活ももちろんですが、便を毎回観察することで、自分の体調を確認していました。日本代表の海外遠征で23人中18人が下痢になった際、私には問題が起きなかったのも、そうした“腸活”が効果を発揮していたのでしょう。
引退直前、知り合いのトレーナーから「便を調べている研究者がいる」という話をたまたま聞き、腸を重視していた自分の経験が一直線につながりました。すぐにお会いして話を伺うと、それまで漠然と気にしていた腸内細菌という言葉も織り交ぜながら、腸の重要性について説明してくれました。それでアスリートの腸内環境を可視化したらビジネスに生かせるのではないかと考えるようになり、引退前に腸内細菌の解析を行う会社としてAuBを起業しました。
2019年12月、500人以上のアスリートの便を解析した研究結果を基に開発した腸内環境を整えるサプリメント「aub BASE」を発売されました。どんな特徴があるのでしょうか。
研究を4年間続ける中で、アスリートと一般の人の腸内フローラ(腸内細菌の生態系)に違いが見えてきました。アスリートの腸には酪酸菌という短鎖脂肪酸の一種が、一般の人に比べて2倍ほど多く存在している上、腸内細菌の多様性もきわめて高い傾向が見られたのです。この研究成果を基に、酪酸菌と様々な菌をバランスよく配合したのが「aub BASE」です。特徴としてはやはり、500人以上の1000を超える便検体の解析結果という科学的知見を基に開発した点が挙げられます。最初の頃は、「便をください」とお願いしても怪訝な顔をされ、断られたりしましたが、アスリートのためになるという意義を丁寧に説明したら協力してくれるアスリートも増えました。
AuBは引退の数カ月前に設立されましたが、プロのアスリートからビジネスという異分野にセカンドキャリアで転身することをどう捉えていましたか。
引退のはるか以前、20代の初めから、セカンドキャリアについて漠然とですが考えていました。カズさん(三浦知良選手)のように年齢を重ねても現役を続けられる選手はいますが、自分はそこまではできないだろう、30代前半には引退して、新たなキャリアに進むことになるだろうと。そして引退のタイミングで、先ほどお話ししたアスリートの腸内環境を調べるというアイデアを思いつき、自然とビジネスのほうに進んできた感覚です。確かにそれまでのキャリアとは全く異なる分野ですが、まずはやってみなければ何もわからないという意識でスタートしました。
ちなみにAuBという社名の由来は何ですか。
アスリート(A)のバンク(B)で、間の「u」は……。実は「便」を意味するあの言葉なのですが、社名にそれが入るのもどうかと思ったので(笑)。それぞれイニシャルで表し、間の「u」はマイクロバイオーム(微生物叢)の「μ(マイクロ)」ということにしています。
2019年に発売開始したサプリメント「aub BASE (オーブベース)」。良好な腸内フローラのベースを作ることを目的とし、27競技500人以上のトップアスリートから得られた1000検体以上の研究データから生まれた。
起業とは「旗」を立てること
起業に向けて何か実際的な準備はしましたか。
特にはありません。とにかく走り始めて、いろいろと手がけていくうちに細かな部分が見えてきたというのが正直な印象です。
ただ、事業を始める際、最初に私自身がどのような「旗」を立てるかは大切だと考えていました。その旗を見て、これは面白そうだと感じた人が仲間になってくれるわけですから、私がまずすべきことといえば、いかに魅力的な旗を掲げ、振ることができるか、その一点だったと思います。特に研究を行うには専門家の協力が必要で、そうした知識や経験を持つ人に集まってもらうために、どのような世界をつくりたいのか、ビジョンを明白に掲げることが重要でした。その上で、アスリートの便を集めて分析するバンクをつくり、そこから得られた 知見を基にアスリートのパフォーマンスを上げることができれば面白いという話を、アスリート仲間はもちろん、知り合いを通じて研究者や経営者など様々な人と会い、伝えました。
AuB株式会社 代表取締役 鈴木啓太氏
アスリートは引退すると、通常は指導の形でスポーツに関わっていきます。それはもちろん重要な仕事ですが、自分がアスリートとして頑張ってきた経験、そこで実感した腸への思いを、指導以外の分野でも役立てられるようになれば、こんなに面白いことはないと私は思いますし、その思いを込めて旗を掲げました。
ドリーム・キラーがいるからこそ強くなれる
起業した時、周囲の反応はどうでしたか。
やはり旗を立てれば興味を持ってくれる人はいて、「一緒にやりたい」という人がどんどんと集まってきました。アスリートのために何かをしたいという人はもちろんのこと、一般の人のヘルスケアに役立てたいという人もいます。
私は、アスリートの腸内解析から得られたデータはアスリート以外の人たちの健康増進にも貢献するのではないかと考えています。これはちょっと夢のような話じゃないですか。その思いに共鳴し、社会に役立つソリューションを生み出したいと考える人が集まってくれたのだと思います。
サッカー選手を目指している時もそうでしたが、「夢はサッカー選手になること」と言うと、「無理でしょう」という反応が大半でした。ドリーム・キラーというのでしょうか。ただ最近は、逆にそういう声があることのほうが大事なのかなと思っています。私の場合はそう言われると、見返してやりたいという気持ちが湧いてくるんですね。そもそも、周りの声など気にならないほど夢中にならなければ、夢の実現などできません。無理かどうかはやってみないと分からない。まだまだベンチャーとして駆け出しですが、「aub BASE」が製品化されたことで、夢の実現に向け一歩一歩進んでいる実感はつかんでいます。
一緒に戦うチームメイトを探す
AuBの代表取締役として普段、どのような仕事をしているのですか。
まずは人を集めることですね。現在、社員は5人ですが、夏頃までに数人増やし、その後も私の掲げる「旗」に共感してくれる人を仲間に加えていければと考えています。それ以外に、やはりファイナンスの部分には代表取締役として大きな責任がありますし、現段階では営業も重要な業務です。アスリートとの打ち合わせもあるので、とにかく人と会う仕事が多いですね。
今、特に力を入れているのは、人材の獲得です。2019年9月に第三者割当増資で約3億円の資金調達を実施したので、次に向けた組織づくりを進めていかなければなりません。具体的にはマーケティング部門と、法務・財務を含めた管理業務を担う人材も増やしたいです。4年間続けてきた研究の成果が製品として出た現段階で、このアウトプットをどのように世の中に伝えていくかが課題だと考えています。AuBの製品はおそらくアスリート向けだと考えている人が多いでしょうが、アスリートとひと口に言ってもトップアスリートだけではありません。例えば市民ランナーもそうですし、スポーツをしていない一般の人にもぜひ使っていただきたいというのが私たちの思いです。
私は、すべての人たちがアスリートだと考えています。トップアスリートはそれこそ0.1秒をいかに短縮するか、極限を追求してパフォーマンス向上を目指す人たちですが、一般のビジネスパーソンも、あるいは学生や主婦も、誰だって日常生活でパフォーマンスを出したい、上げたいと考えているはずです。仕事で良い成果を出すためにも、日頃からコンディショニングを意識しなければなりません。ですから、私たちがアスリートの研究結果をもとにアスリートのパフォーマンスを向上させていくのは当然のことながら、今後リリースする製品も含め、それを一般の人たちにどう活用してもらうか、意義を伝える部分、つまりマーケティングの強化が非常に重要だと考えています。
人材を選ぶ際に最も重視する点を教えてください。
思いが共通していることはもちろん大切です。「aub BASE」をリリースしたとはいってもまだまだ駆け出しのベンチャー企業ですから、仮に優秀な人材が来てくれるとなったときにも、待遇面などハードルとなる部分はどうしてもあるでしょう。そのとき、私たちと思いが共通し、AuBの事業が面白い、AuBの事業で世界を変えたいと考え、一緒に戦うチームメイトになれる人材であるかどうかが、最も重視する部分ですね。あとはもちろん、この人と一緒に仕事をしたいと私が思うかどうか。これはあくまで感覚なものですが、大切な要素だと思います。
キャッシュアウト寸前、頭の中を整理しに山へ
2019年春には資金枯渇の危機に直面し、ファイナンスでも苦労されたとか。
あれは大変でしたね。私たちのビジネスモデルは研究開発型なので、どうしてもバーンレートが高く、資金がショートする前に調達していかなければなりません。リターンを重視する投資家と私たちの理念がうまく合致せず、資金を引き揚げられたり、予定していた調達が直前で頓挫したこともあってキャッシュアウト寸前の状況に至り、寝られない日々もありました。この時期は、とにかく悩んでいました。一度頭をクリアにし、少し落ち着いて考えてみようと、一人で山に行ったこともあります。そこで自問自答した結果、投資家の立場に寄り添う道をとらず、私たちの理念に立ち返ることができました。
その間にも研究が進み、加えてファイナンスもある程度うまくいったので、今はひとまずホッとしているところです。とはいえベンチャー企業はどこでも、同じような苦労をしているのだろうと思います。
AuBでは腸内フローラ検査「BENTRE」も行っている。検査結果を基に食生活についてアドバイスするなど、個人ごとにパーソナライズされたサービスを提供している。トップアスリートの検体から得られた知見を、一般の人々の生活に生かそうとする試みだ。
「今日もピッチに立ちたい」と社員が思える環境を
ビジネスで力になってくれた人物や、支えとなった言葉はありますか。
年上のある経営者から言われた「悩んでいる暇があったら行動しろ」という言葉で目が覚めました。その方は上場企業の経営者で成功した人物ですが、「ビジネスで成功している人は、悩んでいる暇がないくらい、とにかく行動している」と言うのです。全く悩まないと成長がありませんから、悩むこと自体は悪くないと私は思いますが、そのレベルを乗り越えるには、とにかく行動しなければならないということに、その言葉で改めて気付かされました。
尊敬している、あるいは目指したいタイプの経営者はいますか。
経営者ではないのですが、北海道コンサドーレ札幌のミハイロ・ペトロヴィッチ監督が、チームマネジメントという観点で好きなタイプです。ペトロヴィッチ監督は責任の所在をハッキリさせる方で、選手としての責任は毎日サッカーを楽しんでプレーすることだと言います。では試合の勝ち負けの責任は誰にあるのかといえば、それは監督の責任だと。つまり、試合に負けてもその責任は選手にはないと断言していました。
監督を経営者、選手を従業員と仮定すると、企業にも適用できる考え方だと思います。戦略を立てるのは経営者の責任。そして従業員には、仕事がだるいな、つまらないなではなく、今日も仕事が楽しみだという思いを持って会社にきてほしい。その気持ちの違いだけで、ビジネスに大きな差が出るはずです。
今後、目指すところを教えてください。
まず、日本が今後迎えるスポーツの一大イベントを機に、スポーツのレガシーをどのようにして次世代に残していくのか、そしてどのようにスポーツ産業を発展させていくのかが、日本の大きな課題の一つだと考えています。
スポーツを超えてヘルスケアという大きな領域でいうと、高齢化社会や保険、年金、医療費などの問題が山積する中で、課題先進国の日本だからこそできることがたくさんあるはずです。アスリートの便を調べて得られる腸内データを活用していけば、日本全体を健康にすることも可能だと思います。さらには、これから日本と同じような道をたどるであろう諸外国に対して、日本で成功した仕組みを伝えられるのではないか。アスリートの知見が、世界の人々の健康につながっていくような事業を展開したいですね。
もちろんそれは、AuBだけでできることではありません。他の分野の企業や研究機関、組織などと連携し、一緒になって健康増進につながるプラットフォームなり製品なりサービスなりを生み出していくのが、私の夢です。
■ プロフィール
鈴木 啓太(すずき・けいた)
AuB株式会社 代表取締役
1981年、静岡県出身。2000年、高校卒業と同時にサッカーのJリーグ・浦和レッドダイヤモンズ(レッズ)入団。引退まで16年にわたりレッズ一筋で活躍する。2006・2007年Jリーグベストイレブンに選出、2007年日本年間最優秀選手賞を受賞したほか、サッカー日本代表(2006~2008年)にも選ばれ、国際Aマッチに通算28試合出場した経験を持つ。2015年の引退を機に、腸内細菌に関する研究開発を行うAuB株式会社を設立し、代表取締役に就任。
■ スタッフクレジット
記事:斉藤俊明 撮影:川田雅宏 編集:日経BPコンサルティング